2015年9月22日火曜日

季節の匂い

季節には匂いがあって、その匂いが昔の記憶を連れてくる。

その匂いは、変わったばかり季節の急激な温度変化と、そのシーズンに旬を迎えた植物が醸し出すいぶき、それらが合わさったものではないかと思う。
しかし鼻で感じる匂いにさらに記憶がプラスされることで、それは立体的なフラッシュバックになる。

かつてその匂いを嗅いでいたときに自分が感じていた寂しさ、不安、高揚。そうしたひとつひとつの思い出が、季節の匂いで一斉にスイッチが入って私を襲うのだ。毎年繰り返し何度も。

記憶は、心情的にナイーヴだった小・中学生の時代の事象がベースとなっている。

夏の終わりの気温の低下には胸が締め付けられるような寂しさを覚える。
とりわけむせかえすような湿度の8月末、夕方起こる激しい夕立ちには、残り少ない夏休みを強引に味わおうと友達と自転車で強行した市民プールの記憶がセットだ。天気が悪く気温が下がったときのプールは何故だかわからないけれど寂寥感を強烈に伴う。きっと心臓がシュリンクする物理的な動きが気持ちに作用しているに違いない。疲れた体で雨宿り、売店で飲む瓶入りコーヒー牛乳の味も追いかけてくる。宿題をまだ残している焦燥感には、フタをしている。

秋は運動会の清涼な空のイメージがあるだけで、取り立てて大きな感傷は訪れない。
自分が冬生まれということもあって、より寒い冬の方が心情を動かし易いということだろうか。

冬、鼻をツンと刺す寒さが匂いを麻痺させるけれど、そのこと自体が匂いに変わる。
乾燥するから唇が荒れ、当時リップクリームの存在を知らず常に嘗めるから口の周りが赤くなって友人からバカにされた。

日没が早いので部活は早く終わる。帰宅も早いが家には誰も居らず、2匹の犬と散歩をする時間が長くなる。吐く息の白い絵と心臓破りの坂、小学校名物行事の朝マラソンが辛いけれど、ためしに一度自分のタガを外して限界を超えて速く走ってみたら順位が劇的に上がった成功体験がプラスに作用する。少し頑張ればクリスマスと年末年始。年賀状は面倒だけど、大手を振って夜更かし出来る唯一の季節、お年玉も高校サッカーも楽しみだけど、中学生になると受験シーズンが重なって、都合行って来いの季節だ。

春、やっと冬の寒さが和らいだと思ったら次の季節への心の準備が整う前に桜は咲き、やがて散ってしまう為、全体的にそわそわした印象。それまで警戒心を抱かせるような厳しい寒さを持っていた外界が、手のひらを返したようにうららかな日差しを投げ込んでくるこの季節、不安が先行して落ち着かない。

クラス替えの発表に臨む緊張感は、受験の合格発表の緊張感を何故か凌駕していたように思う。新しい教科書とノートは嬉しいけれど、部活も学年が上がり内容も一段とハードになるのが嫌で仕方がない。

そんな子供の様なことを、日本では毎年繰り返していた。
大学時代にはヨットというスポーツを通して年間130日海に出て、季節を肌で感じる暮らしをしていたので匂いで感情が大いに起伏した。三十歳を超えても、家を出た瞬間やオフィスを出た瞬間に入ってくる匂いに、条件反射で胸を動かされていた。

ブラジルではめったにそれを感じないけれど、不思議なもので日本のそれと似た気温や花の匂いを偶然キャッチすると、むくむくと記憶が立体化されて立ち上って来るから面白い。いまだにあのころの感傷が頻繁に甦ることで、人生の初心に立ち返ることが出来る気もする。

桜の木の下で

ブラジルにいると、ちょうどこのシーズンになると
「もう食べたか?」
「なに?ブラジルに2年もいてまだ食べてないのか?」
などという絶大なるオススメを受けるフルーツがある。
それがジャブチカーバである。

南米原産のフルーツである。

ジャブチカーバ wikipediaより掲載

2015年9月15日パウリスタ大通りで
撮影したジャブチカーバ売り
とにかくブラジル人はこれを好きで、農園などを歩いていてふとジャブチカーバの実がなっていたりすると皆熱狂的に寄って行き、食べ始め、そして人に食べさせようとするのだ。ホレホレ、ちょうど成っているぞと。ジャブチカーバだぞと。ああホントだジャブチカーバだワイワイと(笑)。

木の幹の表面に直接実がなるそのさまは異様なものがあるが、裏腹に中身は味も香りもおとなしく、サイズと色は巨峰くらいで、ライチに似た風味と食感がある。故にさほど好んで口にしたくなるような代物でもないのだ。だからニホンジンである我々と、熱狂するブラジル人との間で明確なる温度差が発生するという困った事態が起こる。

なぜそこまで熱狂するかというと、聞けばこのフルーツは実の成るシーズンも限られ、デリケートで傷みやすいことから流通事情も良くないこの国では希少価値が非常に高まるのだという。それは日本で言うところの期間限定の桜の花の下で酒を飲みたがる習性と、さして違うことでもないと思った。

なるほど気が付いたら4月に日本を訪れたという外国人に対して、「桜見た?ちゃんとコザ敷いて花見した?」などと聞いて回る我々日本人の感覚と同じかもと感じたものである。きっと質問された彼らは思っているだろう。「サクラはたしかに綺麗だ。それはわかる。だけどなんでアイツらは木の下で酒を飲みたがるのか。そしてそれを人に勧めたがるのか」と(笑)。

どこかの国で珍重されたり希少性が高かったりすることが、他の国出身の人にも遍く好まれるかどうかは別の話なのだというのが、面白いと思う。冬の鍋料理もひょっとするとそれに該当するかもしれない。自国の文化には、自分がこれまで幼少期も含めて体験して蓄積してきた『幸せプレミアム』ともいうべきものが詰まっているからこそ「無条件に良い」のであって、そのプレミアムを差し引いて異国人の冷静な目で見たら、そのイベントはたいしたことないのかもしれないなぁと。

2015年9月18日金曜日

それがどうした

もっともな数字を取り出して、訳知り顔で「ホットな経済情報」語る。
結論めいたことを暗示した様なしないような体で、形を整え上手く取り繕う。
東京から原稿を依頼され、書くたびに思う。読む人はそれを読んで面白いだろうかと。

「停滞するブラジル経済」とか、「ブラジルレアル、試練のとき」などと変わり映えのしない文句を並べることはできるけれど、そんなことは日本の新聞にだって書いてある。

今回は常々感じているこの国の経済を回している『何か』について日頃思っていることを書きたい。

■ま、いずれ来るでしょう
あくせくすることは、この国では悪だ。
予定時間にまだ来ないがそのことを気にして確認の電話などすることは、カッコ悪い。何故ならそれは人生をゆったりと楽しんでいない証拠だからだ。もし来なければ縁が無かったということで、そのコンタクトを閉じ、『やれやれ』と言ってまた他と仕切り直すだけだ。

こうしたメンタリティが、無駄とバッファを生み、経済を緩やかに、シビアではない形で動かしていると感じる。

無駄や遅延というのは、かつて日本でスティックシュガーの入目が多く、捨てられていた部分も含めて販売者の売上にカウントされていたように、実は経済の規模を膨らませて大きくする効能もあると思うのである。

インフレに伴う値上げもあっさり受け入れられる。端数は切り上げて請求してもあまり文句は言われない。こうした数字を多いサイドに丸める文化も、上述の無駄や遅延と同じレイヤーを成す要素と捉えることができ、比較的苦労少なく売上を上げられる文化を醸成するのに一役買っていると思うのである。

■持てる国
ブラジル製商品は国際競争力が無いという。

それはそのはずで、高い輸入関税と、複雑な通関制度、難解な税制度と過保護な労働法、またポルトガル語という様々な障壁を用いて自国の資源と産業を維持してきた。そのことによって、国内製造業は一昔前のレベルにとどまり、ガラパゴス化している。品質が悪いにもかかわらず、国内産の消費財の値段は高い。

しかし、それがどうした。

こうした鎖国政策が正解であるか間違っているかは、将来の人間のみ語ることができるわけで、今現代に暮らす私達が批判したり憂えたりするのは少し違う。将来的に自国資源を守り通せた2021世紀であったという歴史になるかもしれないのだ。

ブラジルは日本の22.5倍という広大な国土を持ち、自然災害は殆ど無いと言える。凍るような寒さの土地も無ければ、たまに起こる干ばつもたかが知れている。アフリカの一部の国と違って、水資源はあるのだ。食資源は世界有数で、掘れば石油も天然ガスも出、鉱物資源もあり、人口は2億人強、その構成ピラミッドは健全と来た。

つまり、ブラジルはニッポンよりよほど「持っている国」なのだ。だからあくせく働く必要が無いのだ。「カイゼン」も不要。だから研ぎ澄まされた競争に勝った上で提供されるサービスなど、あるはずが無いのだ。でもそれで良いのだ。ギスギスしても結果は大して変わらないのだ。それはあたかもものすごいスピードで追い抜いて行った車に次の赤信号で追いついてしまうのに似ている。

■政治家が悪い
GDP成長率は昨対マイナス予想で二年連続のマイナス。
通貨レアルは急落中で、いまや1ドルR$4.0を付けようとしている。
大統領は超低空飛行の支持率と、ブラジル政界を揺るがすペトロブラス賄賂問題、そしてねじれ国会による指導力低迷に振り回され、経済対策どころではない。

この状況を指さして、この国の人々は皆一様に、「政治家が悪い」とあしざまにいう。
モラルがない、この国の運営の中枢を担うエリートが率先してインモラルなのだと。なにしろ汚職で得るの金額の桁が、100億円の単位だったりしてスケールが違うのだ。怒りを通り越して脱力するのも無理もない。

しかし巷で起こっている政治家批判は、どこか他人ごとに聞こえてならない。自分たちで行動を起こそうという雰囲気がみじんも感じられないからかもしれない。きっとその批評者達は、自らが政治家になれば口を閉ざし、同じことをするのだろうと思わせる空気感がある。

そんな国に明るい未来はあるのか。
・・・教育がキーワードになろう。

ブラジル人は家族のきずなを大切にするというのだけれど、その実、多くの家庭にはベビーシッターがいて学校は半日制だから空いた半分は英語や柔道教室に行かせるなど、外部に任せていることが多いと感じる。という訳でブラジルは社会全体で子育てしているので、社会が「教育」する結果は、ある程度同じメンタリティに繋がるのではないかと危惧する。

私は、日本では家の中の教育はしつけと称し、家の外の教育を教育と定義している、とそんな認識でいる。しかしこの国では全ていっしょくたに「教育する=”educar”」にまつわるコトバ達で語られるのである。ブラジル人にとって教育はカネのかかるものであり、何か新しいことを学ぶ時には専門の機関に行って先生に教えてもらう、そういう風に発想するふしがある。逆に言うとカネをかけて履修すればなんでも身に着くのだという雰囲気がある。

家の中で自然に叩き込まれるしつけの部分や、学校の部活動で醸成されるような運動のスキルやチームワーク形成の為のメンタリティなどについても、皆それぞれ外部のスクールで補っている感じなのであるからして、常々大丈夫かなと心配している。

しかしまた、それがどうしたである。

あくせくした道徳観でキッチリ仕込んだ子供が少なくない数で自殺をしてしまうような社会・日本と、どちらが良いのかという話だ。政治家のモラル?ある意味動機が純粋でわかり易くていいじゃないかと(さすがにこれは誰も言わないけれど、そんなノリがきっとあるはず)。


ブラジルで目につくことがらのほとんどは、ブラジルが日本と対極にあるからであって、『それがどうした』が殆どなのである。そして100200年の長いスパンで見たときに、ほくそ笑んでるのはどちらかというと、ブラジルであるような気もするのである。