国際人って何だろう?
僕なりの答えは、『ニュートラルな人』だ。
その意味は、立ち位置が中立で、違うものに対して適応力が高い人を指している。
違うものとは文化、言語、気候、気質、人種など、様々な環境要素がここに入る。それはまた、自分が今ある状態や環境とのギャップが発生した際の適応力とも定義できる。まぁ、簡単に言えば環境に合わせて擬態できる魚のイメージか。
■中浜万次郎
幕末から明治にかけて活躍した中浜万次郎という人がいる。所謂ジョン万次郎だ。日本人なら誰もが彼を国際人と認めるだろう。彼についてはWikipediaにこうある。
=Wikipediaより(抜粋)=
天保12年(1841年)、萬次郎が14歳の頃、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた中浜万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。
=引用ここまで======
しかし考えても見たい。
土佐の一介の少年漁師にすぎなかった万次郎が、難破して漂流したとき、メリケンの捕鯨船が島に来た時、ハワイで仲間と別れた時、初めて世界地図を見たとき。。。
それぞれのシーンで、彼はそれまで見たことも聞いたこともない情報の中で、人生の決断をしたはずだ。そして行く先の社会で定着した。溶け込んだ。さらに10年経って帰国してからも通訳や教授として活躍したということは、日本という「異文化」にも再び溶け込んだということだ。
ハワイまでの航海の間にホィットフィールド船長にその明晰な頭脳を認められ、万次郎だけ一人本土への航海に誘われた、そして他の乗組員も彼のことを気に入り、手取り足取り捕鯨と英語を教えたというから、相当に魅力的な少年だったに違いない。
■初めから「国際人」では無かった万次郎
ここで言いたいのは、彼は国際人になったのだが、元々そうだったのではないはずだ。その能力は習ったものでもないだろう。いわば国際人としての瞬発力(自分の文化に固執せず、新しい環境に適応するスピード)をその都度発揮したということなのだろうと分析する。
そしてまた、船長の厚意で入学させてもらった西海岸の学校で、学問の呑み込みが非常に早かったともある。これも瞬発力の成せるわざと思うとともに、恐らく好奇心を旺盛に併せ持っていたのではないかと、推察されるのである。
■外国語力=適応力???
こちらでブラジル人と会話していると、我々ガイジンがポルトガル語を話しても、こちらの言いたい内容をうまく拾ってくれる人と、そうでない人(聞くことに辛抱強くない人)に分かれるのがよくわかる。
またスピーキングにしても、ゆっくりハッキリと話をしてくれ、あえてこちらが聞き取りやすくしてくれる人と、それをしない人とに分かれると思う。しかしそれは持って生まれた才能とでも言おうか、必ずしもその人の国際経験の場数とリンクしないと感じる。都市のビジネスマンよりも、田舎のオバチャンとの方が相互理解の高い会話が弾むときがあるのだ。
日本人の間でも実は同様であるはずで、相手が理解していようがいまいが話しまくる人というのは、少なからず存在する。
つまりコミュニケーション能力というのは適応力の一部を成しているとは思うのだけれど、それは言語を問わず普遍的なものであり、また外国語を操るスキルとは必ずしも直接リンクするものでもない、と思うのである。
日本国内でも、同じ日本語という言語を話すけれど、なぜか「あの人の言っていることはどうもよくわからない」という現象が発生するはずだ。この発生率は、異言語間のコミュニケーションにおけるそれの発生率とさして変わらないと常々感じている。
■国際人は養成できる?
というわけで、国際力は適応力。
適応力は言語力とリンクしない。
だとしたら、国際力は、養成できるものなのだろうか?
答えは否、だ。
答えは否、だ。
その子供がうまく擬態の出来る魚ならそう促すよう教育するが、そうでなければ放っておくしかない。国際人教育などと最近よく聞くのだけれど、その子が持っているネイチャーが適応を好まないならば、その子を無理やり国際人に仕立てようとすることはストレスだ。
違いは違いとして尊重しなければならないし、適材適所でそれぞれ人材活用すべきだ。
■次の黒船は?
ところで我々人類にとって、次なる黒船はなんだろうか?
・・・地球外生命だろう。
彼らが現れた瞬間、我々は皆中浜万次郎少年の立場に放り込まれる。
彼らが現れた瞬間、我々は皆中浜万次郎少年の立場に放り込まれる。
その時こそ我々の中に眠る真の『国際力』というか適応力が問われるときだ。
前例の無いことがらに対して、適応しようと最前線に立って怪我しながらも何かを吸収しようとするのか、一歩引いてワンクッションを待つのか。はたまた環境に絶望してノイローゼになってしまうのか。
前例の無いことがらに対して、適応しようと最前線に立って怪我しながらも何かを吸収しようとするのか、一歩引いてワンクッションを待つのか。はたまた環境に絶望してノイローゼになってしまうのか。
きっと人類の歴史はこうして繰り返されてきたのではないだろうか。
荒唐無稽と思われるかもしれないが、あながち外れてもいない考えじゃないだろうかと、日々夢想している。
荒唐無稽と思われるかもしれないが、あながち外れてもいない考えじゃないだろうかと、日々夢想している。
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【参考】最後に、ジョン万次郎の人物伝で面白いのはこちら
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