2016年9月24日土曜日

国際人とは?


国際人って何だろう?
僕なりの答えは、『ニュートラルな人』だ。
その意味は、立ち位置が中立で、違うものに対して適応力が高い人を指している。

違うものとは文化、言語、気候、気質、人種など、様々な環境要素がここに入る。それはまた、自分が今ある状態や環境とのギャップが発生した際の適応力とも定義できる。まぁ、簡単に言えば環境に合わせて擬態できる魚のイメージか。


■中浜万次郎
幕末から明治にかけて活躍した中浜万次郎という人がいる。所謂ジョン万次郎だ。日本人なら誰もが彼を国際人と認めるだろう。彼についてはWikipediaにこうある。

Wikipediaより(抜粋)=
天保12年(1841)、萬次郎が14歳の頃、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し143日間生活した。そこでアメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた中浜万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。
=引用ここまで======

しかし考えても見たい。

土佐の一介の少年漁師にすぎなかった万次郎が、難破して漂流したとき、メリケンの捕鯨船が島に来た時、ハワイで仲間と別れた時、初めて世界地図を見たとき。。。

それぞれのシーンで、彼はそれまで見たことも聞いたこともない情報の中で、人生の決断をしたはずだ。そして行く先の社会で定着した。溶け込んだ。さらに10年経って帰国してからも通訳や教授として活躍したということは、日本という「異文化」にも再び溶け込んだということだ。

ハワイまでの航海の間にホィットフィールド船長にその明晰な頭脳を認められ、万次郎だけ一人本土への航海に誘われた、そして他の乗組員も彼のことを気に入り、手取り足取り捕鯨と英語を教えたというから、相当に魅力的な少年だったに違いない。


■初めから「国際人」では無かった万次郎
ここで言いたいのは、彼は国際人になったのだが、元々そうだったのではないはずだ。その能力は習ったものでもないだろう。いわば国際人としての瞬発力(自分の文化に固執せず、新しい環境に適応するスピード)をその都度発揮したということなのだろうと分析する。

そしてまた、船長の厚意で入学させてもらった西海岸の学校で、学問の呑み込みが非常に早かったともある。これも瞬発力の成せるわざと思うともに恐らく好奇心旺盛に併せ持っていたのではないかと、推察されるのである。


■外国語力=適応力???
こちらでブラジル人と会話していると、我々ガイジンがポルトガル語を話しても、こちらの言いたい内容をうまく拾ってくれる人と、そうでない人(聞くことに辛抱強くない人)に分かれるのがよくわかる。

またスピーキングにしても、ゆっくりハッキリと話をしてくれ、あえてこちらが聞き取りやすくしてくれる人と、それをしない人とに分かれると思う。しかしそれは持って生まれた才能とでも言おうか、必ずしもその人の国際経験の場数とリンクしないと感じる。都市のビジネスマンよりも、田舎のオバチャンとの方が相互理解の高い会話が弾むときがあるのだ。

日本人の間でも実は同様であるはずで、相手が理解していようがいまいが話しまくる人というのは、少なからず存在する。

つまりコミュニケーション能力というのは適応力の一部を成しているとは思うのだけれど、それは言語を問わず普遍的なものであり、また外国語を操るスキルとは必ずしも直接リンクするものでもない、と思うのである。

日本国内でも、同じ日本語という言語を話すけれど、なぜか「あの人の言っていることはどうもよくわからない」という現象が発生するはずだ。この発生率は、異言語間のコミュニケーションにおけるそれの発生率とさして変わらないと常々感じている。


■国際人は養成できる?
というわけで、国際力は適応力。
適応力は言語力とリンクしない。
だとしたら、国際力は、養成できるものなのだろうか?

答えは否、だ。

その子供がうまく擬態の出来る魚ならそ促すよう教育するが、そうでなければ放っておくしかない国際人教育などと最近よく聞くのだけれど、そのが持っているネイチャーが適応を好まないならば、そのを無理やり国際人に仕立てようとすることはストレスだ。

違いは違いとして尊重しなければならないし、適材適所でそれぞれ人材活用すべきだ。


■次の黒船は?
ところで我々人類にとって、次なる黒船はなんだろうか?
・・・地球外生命だろう。

彼らが現れた瞬間、我々は皆中浜万次郎少年の立場に放り込まれる。
その時こそ我々の中に眠る真の『国際力』というか適応力が問われるときだ。

前例の無いことがらに対して、適応しようと最前線に立って怪我しながらも何かを吸収しようとするのか、一歩引いてワンクッションを待つのか。はたまた環境に絶望してノイローゼになってしまうのか。

きっと人類の歴史はこうして繰り返されきたのではないだろうか
荒唐無稽と思われるかもしれないが、あながち外れてもいない考えじゃないだろうかと、日々夢想している。

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【参考】最後に、ジョン万次郎の人物伝で面白いのはこちら
「土佐の人物伝」Copyright (C) 2000 KOJYANTO.NET. All Rights Reserved.

2016年9月12日月曜日

南国シェードブラザーズ


兄はマレーシア駐在、弟である私はブラジル駐在、と二人で駐在が被っていた時期があった。そんな中二人とも同時に日本に一時帰国したタイミングがって、示し合わせて両親の住む長野県に集合した

お昼時、両親含めてみんなで近場のレストランに行こうということになり、2台に分乗。私は自分で借りていたレンタカーを運転して兄を助手席に乗せランチ場所へと向かった。時は初夏、よく晴れた日で、気温はぐんぐん上がっていた。

そのレストランに着くと、店の前にある駐車場は砂利だった。周りにはが数本、生えていた。

私はブラジル生活での習い性で、同じ駐車場の仲でも木の陰がある場所を探してわざわざ少し離れたそこに停めるべくアプローチ。「お、ラッキー、いい感じの木陰あり」などと一人でぶつぶつ言いながら停めに入ると兄も隣で「いいね、大事大事」と同じくぶつぶつと同調した。

車を降りると爽やかな風が我々二人を包んだので、思わず我々は顔を見合わせて爆笑した。
初夏の快晴とはいえそこは信州安曇野、快適なのだ。木陰を探す努力は徒労とは言わないまでも、それは明らかに場違いな発想とアクション。。。

クアラルンプールとサンパウロ、そうした都市では日中に太陽の下に車をさらすとどういう地獄が待っているか痛いほどよくわかっていて、兄も私も無意識に木陰(シェード)を探してシェードの区画が空いていたことを幸運と感じ、そこを取れたことに心底感謝していたのだけれど、それがなんとも無駄なことだとわかり、おかしくてしょうがなかったというお昼前の出来事でした。

2016年9月2日金曜日

しばいぬ


今朝、サンパウロの街で柴犬に遭遇した。いつか出張立ち寄ったニューヨークのセントラルパークでも、柴犬は一際目を引く存在だった。その凛々しい立ち姿、美しい毛並み、小柄で引き締まった体躯は、我が日本の誇りだ。

柴犬を通りで見かけると、いつも懐かしさと切なさで胸が締め付けられるような感覚に苛まれる。きまって思い出すのは、コロとチロという、仲の悪い親子のことだ。


両親が共働きで兄弟と歳の離れていた僕は、鍵っ子だった。その僕のパートナーだったのは、ウチで飼っていた二匹の柴犬だった。学校行って部活を終えて帰宅、それから母親が帰って来るまでの2時間ほどの間、僕はほぼ毎日この二匹の犬と過ごしていた。言葉は交わせないけれど、気持ちは通じあっていたし、一緒にいるだけで心安らぐ存在だった。よくイルカが心の傷をいやすというような話を聞くけれど、思春期で何かと傷つきやすかった僕の心はこの2匹の犬が癒してくれていたように思う。

この2匹は親子で、母親はコロ、娘をチロと名付けていた。コロは僕が小学校2年生の頃親がデパートで買って来た、血統書付きの柴犬だった。由緒正しい血筋のせいか彼女は勝気で独立心が強い、お嬢様気質とでも言おうか、気難しい女性であった。我が家でも一番偉い人は僕の父、そして母、という序列を良くわきまえており、僕のことは自分より下等に見る、散歩に連れて行ってくれる時だけ尻尾を振る、そんな態度を取っていた。


コロと小2の私
 その彼女が発情期にあまりにうるさく吠えるのでチェーンを外して庭で放し飼いにしていたところ、高さ2m以上もあろうかという塀を飛び下りて、まさかの駆け落ちをしてしまった。お相手はそのころ周囲をうろついていた首輪の無い白い雑種風のオス犬で、まさにフーテンのなりをしていた。

駆け落ち事件の1週間ほど前から、夕方の散歩の度にウチのお嬢様コロの周囲をうろつきながら狙っていたアイツは、小学生の僕には不気味な存在であったが、威嚇するのも怖くてそのままに放置していた。たしかに不穏な空気は流れていたものの、飼い主である僕は無策のままいたずらにナンパ師の冗長を許していたことになる。かくして世間知らずのお嬢様は、その日深夜訪れた(であろう)フーテンのシロさんの誘いにまんまと乗り、かつて飛び出したことのない塀を飛び下りて、自由を手にしたのだった。

その逃避行現場は目撃していなかったので、翌朝庭から忽然と姿を消したコロを探しに探した。疲れ果てて諦めかけた3日後、母の運転する車で近所を走行中に、ヤツと一緒にいるコロを偶然目撃、急いで車に収容したが時すでに遅し、コロは見事に身ごもっていた。

コロは3匹の子犬を生んだ。オス、メス、メスだった。生育の良い2匹は希望する友人の家に引き取られ、残った一匹は我が家で飼うことにした。兄弟間の競争に敗れ、いつも母乳に有りつけず、一番体重の軽かったチロは、その分とびきり愛嬌があって、人懐こく、口を閉じても出っ歯がはみ出ており、それがまたたまらなくかわいい、そんな子犬だった。
 
3匹の子犬と小5の私
母・コロは幼くして親と別れ、デパートで売られ、それでも由緒正しい家柄に裏打ちされた品格とプライドを保つ、気丈な女性であった。相手は放浪者ではあったが、それでも塀を飛び下り駆け落ちし恋愛を成就させ、子を成した。寡黙に自分で人生を切り開いた、孤高の存在である。まるで孤独な生い立ちが彼女の一生の全てを運命づけたかのように。

一方で娘チロはというと、父は身元不明のホームレスだが生まれた時からずっと母が一緒、愛嬌はあるが出っ歯、寂しがり屋で誰にでも節操なく尻尾を振るという、母とは真反対の出自と性格を有していた。甘えん坊で一人では遠くに行けず、何かを切り拓いて進んでいくタイプでは決してなかった。

そんな二人が母子として一つ屋根の下に共同生活をしていたのだから、その空気感たるやなんともちぐはぐで奇妙なものだった。二匹の相性は決して良いものではなく、よくエサを巡って喧嘩していたものだった。そこに小学校高学年の僕が入って散歩をしながらあーじゃないこーじゃないとやるのだ。不思議な3人散歩だったけれど、あの数年間はたまらなく幸せな時間だったのだと今思い起こすとつくづくそう思う。

僕が大学で関東に出て2年でコロは死んだ。知らせを受けた翌日に実家に戻って埋葬した。チロは両親が旅行中に一時預けの親類の家から何を思ったか逃走、そのまま行方不明になったという。持ち前の愛嬌で他の誰かに優しく保護されたか、あれで箱入り娘だったから初めて出たシャバで良い犬に巡り合ったりして結構幸せに暮らしたんじゃないかな、なんて願ってやまない。

2匹の柴犬は、僕の人格形成に非常に大きな影響をもたらした。今でもコロとチロは僕の心の中にいる。それだから、道で柴犬が歩いているのを見ると、 あのころの記憶が一斉に呼び覚まされて、2匹に感謝の気持ちを伝えたくて、でもそれが出来なくて、胸がいっぱいになるのである。
チロ(黄色の首輪)、大学生の私、コロ