2020年4月18日土曜日

オマールの選択

今日は朝から雨が降っている。予報によるとひときわ大きな低気圧が通過するのを、一日中待たなければならないらしい。こんな雨の日には、きまって思い出す光景がある。それは私が『教養』というものの普遍的な価値に触れた瞬間のことである。

あれは10年前くらいの秋だっただろうか、コーヒーの貿易に携わっていた私は、上司とともにエチオピアからのゲストをもてなすため、週末を利用して日光の旅館に投宿したのだった。エチオピアを代表するコーヒーの輸出業者オーナー社長アブドラとその弟さんオマール(二人とも40代後半)が相手である。

特にアブドラは日本を何度か経験済みなので、今回は趣向を凝らし、露天風呂付き個室を備えた宿に泊まろうという、少しハードル高めのアレンジをしたのだった。オマールは日本が初めてなので、その点はいささか心配ではあったのだが。

金曜日までの平日は忙しく仕事の予定をこなし、土曜日早朝に都内ホテルpick up、一路日光へ北上した。到着した日は東照宮などの主だった観光地を巡り、夜は宿を堪能した。夕食のメニューこそエチオピアのゲストには難易度が高かったが、宿にも多少調理の工夫をしてもらい、二人とも満足してくれた。

明くる日曜日は、大のゴルフ好きであるアブドラに喜んでもらうため、近くのゴルフ場でラウンドをする段取りになっていた。一方オマールの趣味はポロであり、ゴルフは全くしないということで、当初はカートで散策がてら一緒にラウンドに付いてきてもらう予定だったのだが、当日はあいにくの雨となってしまった。

天候が悪いがどうするかと聞くと、オマールは宿に残ると言い出した。宿に問い合わせたところ、チェックアウト時間を好意で14:00まで伸ばしてくれるということで、弟氏をひとり残して我々三人はゴルフに出かけた。宿の方には英語の出来る方がいらしたので、申し訳ないが何か彼からリクエストがあれば対応をしてほしい、追加決済は後でするからと言い残しておいた。

悪天候だったが、そこは大のゴルフ好きのオーナー氏、ほくほくの笑顔でハーフをこなしたところで、寒くなってきたこともあり、もうこれで充分ということで、昼前に上がることにした。ただ一点、オマールがどう過ごしているのかだけが気がかりだった我々は、足早に宿へと帰還した。

一人で大丈夫だったかと問うと拍子抜けするくらいに満ち足りた気配で我々を迎えたオマールは、こう説明したのだった。

『雨は読書が進むから好きだ。ひとり露天風呂に浸かりながら本を読む。
雨の音が静けさに趣を添える。川のせせらぎも聞こえる。たまに鳥が鳴く。
他になにも要らないよね。』

なんの事は無い、この宿の、この部屋付き露天風呂を、一番堪能したのがオマールだった訳だ。彼の言葉から滲み出る侘び寂びの境地は、静かに我々を圧倒した。もちろんオマールは一人でいる間、宿に何もリクエストしてはいなかった。

私はそのとき、教養を備えた人の醸し出す空気感に初めて触れたのだった。
そしてその空気感というものは、国境を超えて存在するユニバーサルな世界なのだということを、知ったのだった。

世の中の経営者でもアーティストでもアスリートでも、戦国武将でも思想家でも、西洋でも東洋でも、エッセンスを突き詰めると求道者はなぜか皆同じことを言い出すその訳は、こうしたことにあるのかなと少し扉の前に立った気がした、そんな瞬間なのだった。