2020年12月19日土曜日

運動とホルモン

 おかしな光景

7年前までは、「ジョギングと称して道を走っている人々は、いったい何が楽しくてあんなことやってるんだ?」と思っていた。心から、不思議だった。


でも今は走っている人の側になっている。


今日は月に一度の水泳の日だった。30分で1kmゆったり泳ぐと、ひと月分の澱が消え去る感じがして爽快である。この習慣も、昔の私からしたらまさに奇人変人の所業だろう。でも今は進んでこれを行うようになった。


なぜ、こうなったのか?

実はハッキリとはわかっていなくて、複合的な要素が絡み合っているのだと思うのだけれど、強いていうならば一番の要因は『清々しさ』だと感じている。


セロトニンとメラトニン

運動を通した心の清々しさは、一体何処から来るのか。

私の実体験と、ネットで得た知識を合わせると、それはどうやらこういうことの様だ。


ランニングに代表される運動は、定期的な振動を脳に与え、これが「セロトニン」の生成に役立つ。


振動脳みそを取り囲む様に浸している間質液なる液体がシャッフルされる 


というのが、セロトニン生成に寄与するのだとか。


セロトニンは通称ハッピーホルモン、気分がポジティブになる。それだけでなく、夜になると安眠ホルモン「メラトニン」の原料となるらしい。


朝走る、気分が前向きになる、よく眠れるようになる。

朝早起きになる、朝走りたくなる、夜早く眠くなる。。。

こんなに素敵な循環、あって良いのだろうか?


朝走る?夜走る?

では一日のうち、どの時間帯で走るのが良いのだろう。

私にとっては、朝走るの一択である。

せっかく大量にセロトニンを生み出すなら、1日の始まりが良い。


別の視点からは、朝、代謝の良い状態に身体を持っていくと、その状態が長続きするので、一日を通した基礎代謝が総量として上向く。夜走ると、せっかく上向いた基礎代謝が寝ることで蓋をされ落ち着いてしまう為、もったいない。


それと、副次的な効用として、朝何かを達成して誇らしい自分に満足することで、その日一日の良い流れが生まれる、というのもあるだろう。

だから朝が良いと考えるのである。


継続

次に運動習慣を継続すること、について。

どれだけ走っても、練習を重ねても、楽になることはない。

でも続けるのはなぜだろう。


ランナーとして知られるコブクロの小渕健太郎氏が、大阪マラソンのテーマソングを書いていて、そこに興味深い一説がある。


『なんで走るの好きなんですか? たまに聞かれて答えに困る

自分でもようわかれへんのよ ホンマに

大人になって見つけた 割と辛抱強い自分が 

一体何処まで行けるか 知りたいねーん』(コブクロ “42.195”より)


これが日々走る我々の心情を良く言い当てている気がしていて、ランニングというものはそもそもオトナこそ興味を持ちやすいものなんだろうなという気がしている。


距離にしてもタイムにしても、達成しても次の目標がやって来るこの種目は、いつまで経っても楽にはならず、これにきっと終わりはない。

でも継続できている自分は、好きだ。かつてこんなに何かを続けることが出来たのって、小中高の部活くらいだよなと。なんだ、俺も捨てたもんじゃ無いな、と。


ストイック?ほんとにそれだけ?

では継続して日々走る人々は、皆ストイックな求道者なのだろうか。

そういう気質を持った人にしか向かない習慣なのだろうか。


答えはきっと否で、一瞬負荷を掛けるそのタイミングだけ見つめると大したもんだとなるだろうが、実はその後に大量の精神的果実を得るので、トータルで見ると合理的選択をしているとも言える。つまり、メリットがあるからやっている、という。そもそも割に合わなけりゃ誰もやらないだろうと。


夏は暑いし冬は寒い。

でも運動すると、メンタルの調子が抜群に良くなるし、カロリーを気にせず、好きなだけ食べることもできる。


辛いことの繰り返しに励むのは、その先に多くの見返りがあるからである。

割に合わないどころか、実はお釣りも来るのだ。


そんなわけで今日も走る。

向き合うのは、自分。

得られる果実、ヒトリジメ。

2020年12月17日木曜日

ふたつのお店にて

同じ日にふらりと訪れたふたつのお店で体験したそれぞれが、

なんとも言えない「なんだかなぁ」だった、という話。



①試着の果てに

目的の場所に向かう途中でふと気になるお店を発見し立ち寄った。

それは以前ネットメディアに舞い込んだ広告で見て知っていた程度のものだったが、実際に目の当たりにするとその佇まいが好みのテイストだったこともあり、何が欲しいわけでもないが入ってみたのである。


読んだ記事によるとそのお店は自動車用品店の新規ビジネスだとかで、アパレルやアウトトアギアを中心としたセレクトショップ然とした陳列があり、特に小物類は男心をくすぐる、大変ワクワクするものであった。


一通り眺めてすぐに買うものはないけれどいずれまた来たくなるだろうな、という感想をもって出口に向かう途中で、気になるアウターがハンガーにかかっているのを見つけ、足を止めた。


手触りを確かめていると、女性店員さんが『よろしかったら羽織ってくださいね』などと声を掛けてきた。まったくもって、服屋のこの手の声掛けは無意味である、という常日頃から感じている持論が頭をよぎりつつも、「わかりましたー」などと軽く相槌を打ちつつ会釈した。


そんなこんなをしのごの考えながらも、ダウンの軽く入ったこのアウターの着心地を少し確かめてみたいなと思い、試着することにした(結果的に店員さんの声かけは意味があったと思われるw)。サイズはM、色は黒をチョイス。最寄りの鏡の前に案内され、荷物を隣のベンチに置き、袖を通してみた。


私「・・・あれ?」

店員さん「・・・」


一眼でわかる、絶望的な似合わなさ。

撫で肩体型が悪く作用して、例えていうなら幼稚園児のスモックをおじさんが着ている感じになってしまっていた。

ち、違う、俺は悪くない、悪いのはこれを着せた店員さんであると心の中で悲鳴を上げつつ、逃げ場のないポーカーフェイスを決め込んだ。


私「・・・」

店員さん「・・・え、Lだったかな・・・?」


いや違うよ、ワンサイズ上げたらさらに園児化が加速するに違いない。

だがなんとかコメントを紡ぎ出さねばと的外れなサイズ犯人説をでっち上げたのは彼女のせめてもの功績である。


しかしどうすべきか。

照れ隠しに独り言をしのごの繰り出すと彼女にフォローを強いている様で具合が悪い。


かと言って、「やべ、なんか、スモックみたいだ、幼稚園児か七五三かよ」などと自虐を披露すれば、ますます彼女が窮地に追い込まれてしまう。自虐に対する然るべき軽妙なツッコミなどという上等なコミュニケーションは、我々の様な一見の間柄には望むべくもないのだ。


私「うん。わかりました。ありがとうございました。」


と手短に言い残して、彼女に別れを告げた。いくらもダメージを受けてない風を装ってお店を後にすることにした。


無傷を『装って』いるので、足早ではなく通常よりむしろゆったりと出口に向かい、なんならもう一点試着しても良いんだくらいの構えを維持しつつ、それはもう細心の注意をもってゆっくり店を出て、移動の途についたのであった。




②推薦に惹かれて結局は

次に、そろそろ新しい文庫本を仕入れたいタイミングだったので、本屋に赴いた。


過去に二度行ったことのあるそこは、20〜30程度のタイトルの文庫本を、新旧取り混ぜ店員さんのコメントを添えつつ平積みしているという、大変特色のあるスタイルが気に入っていた。


私は電子書籍とは距離を置きたい派で、買うときは現物を手に取って吟味したいし、読むときは左手に残るページの厚さを感じながら読み進めたい派なので、こうしてちょくちょくリアル本屋を利用するのである。


しかもその書店のレコメンド達は、いちいち私の感性にひっかかるもの達ばかり選択されていて、いったいこの書店の店員さんは私の為に作品をセレクトしてくれているんじゃないのか?と思う刺さり具合であり、過去二度の購入はバッチリ満足した経緯があった。そのため、この日もワクワクしながら提案コーナーへと足を進めた。


この日は時間が限られていたこともあり、いつにもまして直感的に1冊決めようとの腹づもりで臨んだわけだが、そこは相変わらずのテイスト感で、キニナルもの達がいくつも推薦されていて、かつ前回ともまた違った面々が置かれていて、絞り込むのに苦労したが候補を二つに絞った。


そろそろ出なきゃという刻限まで最後の1分のところで、読んだことのない作家という理由から二つを一つに絞り、今回も素晴らしい小説に出会えるゾという期待感に胸を膨らませつつお店を後にした。


その日の帰宅時、いつもの様に30分の電車時間を利用して買っておいた小説を手に取り、読み進めた。やはり直感を外れておらず、出だしからワクワクの種を撒いて育ててくれる様な展開であり、翌日の出勤時にも夢中になって読み進めていた。


おおよそ4分の1くらい読んだところで、「おや?」と感じることになった。

主人公が突然気分が悪くなってカルチャーセンターの受付で大変な目に遭うという、だいぶ特徴的なシーンが登場するに及んで、私は思い出したのである。過去にこの作品読んだことあるぞ、と。この作家初めてだからという思いが強すぎて内容チェックはある程度軽くし過ぎていたのが災いしたわけだ。


書店員さんのコメントからは、既視感はまるで感じられず、また文庫本はいつも書店のカバーをして持ち歩くので表紙デザインからは既に買ったことがある作品かどうかは分かりにくい。おなじみの作家の作品であればある程度意識はするが、お初(だと思い込んでいた)作家であれば注意力は自ずと下がる。


また、出来る限り先入観を排除したいという思いから、候補になった時点で付帯情報をカットしようという意識が芽生えてしまい、今回の様な事態を招きがちであるのだということに、今回初めて気がついたのである。前回買って読んだのは5年前くらい前だっただろうか・・・。


自らの記憶の頼りなさにウンザリしつつも、読書巡目の発見を確かめに行くかの如く、丁寧に読み、アーティストである作家さんへの二度の印税支払いも悪くないなどと言い聞かせて読み切ったのであった。



ことほど左様に、なんだかなぁの一日であった次第。