2014年10月31日金曜日

インフレの国

赴任開始してから、変だなぁと感じ続けたことがある。
それはこの国のインフレである。

本日1031日、日本では日銀総裁の黒田東彦さんが追加緩和を発表し、円安が進行し日経平均も6年ぶりの上げ幅を記録した。常に思う。黒田さんの立ち居振る舞いは、説明は自らの言葉で透明性高く、取るべきリスクは取るという点で男気を感じさせ、国のエリートかくあるべしと見ていて嬉しく思う。このように、日本では物価をたかだか2%上げる為に、頭脳総動員で様々な手を尽くしている。

ブラジルはどうだ。物価上昇率は6.75%を記録し、一昨日のCOPOM(金融政策決定会合)でSELIC(政策金利)を11%から11.25%に上げることを決めたばかりだ。

このように天と地ほどの違いがある二つの国に住んだ経験から紡ぎ出たのは、デフレを加速させた一番の犯人は、難しい金融政策ではなく、「競争」と「日本人のメンタリティ」の存在ではないのか?という疑問である。

■悪気もなく、実にしれっと
ブラジルでは、至る所で『値上げ』が実にしれっと行われる。
我々日本人は、「これこれこういう状況で、度重なる企業努力の結果何度も価格据え置きを実現して来たのだが、さすがにかかる外部環境の急激な変化にはとうてい太刀打ちできるものではなく云々かんぬん・・・」という儀式がなければ値上げなんてものはまかりならんというメンタリティを持っている。

しかしこの国では値上げに理由は不要である。だからニホンジンは、その彼らの態度を消化するのに毎度時間がかかるのである。なんでそんなに値が上がるのか、なんで彼らは平気な顔でしれっとそれを実現できるのかと。そんなもん、ニッポンでは通用しないんだゾと。

直近10か月で、ミネラルウォーター(20リットル入り宅配)の価格はR$11からR$14へと27%上昇し、理髪店の価格はR$4050へと25%上昇した。娘の幼稚園のバス代はほぼ自動的に9%上がった。

■インフレというもの
ブラジルのここ5年間の物価上昇率は、年率4~7%のレンジで推移している。だからといって、冒頭の様な値上げをはいそうですかと受け入れるのは、世界でも稀なデフレの国から来たウラシマであった私には、赴任当初到底難しいことであった。だがこの国で生活していろいろな違和感を感じながら物事を眺めているうちに、なんとなく道理がわかってきたような気がしつつある。

そもそもインフレはなぜ起きるのか?たしか大学時代の一般教養科目・マクロ経済学でだいぶ昔に学んだ様な気がする(笑)。旺盛な需要が主導するデマンドプル型と、例えば輸入品の価格上昇などが引き起こすコストプッシュ型とに分かれると確かあった。ブラジルではここ数年後者のケースはさほど見られないので、前者が引き起こしていると判断してよいのだろう。

ブラジルに暮らしたことがある人は、「ブラジルは物価が高い国だ」と口々に言う。そしてブラジルに暮らしたことが無い人は、「え?そうなんですか?全然そういうイメージが無いんですけど」という。誤解を恐れずにざっくりで価格レベルをここに示すとすると、スーパーで売られている食材などは日本と同じレベル、少し加工された日曜品例えば紙製品、シャンプー、衣服、キッチン用品などは日本の23倍くらいの価格イメージだ。自動車は日本の2倍、レストランは日本の2倍、ビッグマックは単品でおよそ650円相当だ。そう、実感として想像より高いのである。

■少ない競争
ブラジルではそこかしこで競争が少ない。これが物事を理解する上で大切なキーになる。需要が旺盛と言うよりは、供給がより制限されていると表現した方が適切だろう。だから相対的に需要が常に高い状態となり、モノの値段が上がると理解できる。

では何故競争が少ないのか。関税と非関税障壁とで国内産業を守っているからである。エネルギー資源や食糧資源を輸出するのは国策で奨励の方針だが、逆にモノを輸入するのは難しい制度になっている。また、他の国に比べて新規参入がしにくい法規制が多くあり、税制度などが複雑かつ更新が頻繁で、企業にとっては非営業部門にかける費用が非常に高くなり、いわゆるブラジルコストと言われる部分がかさむ構造がある。故に多くの分野でトップシェア企業のさらなる寡占化が進み易い環境がある(ビール、スナック菓子、食肉分野など)。規模を大きくすれば職能部門を効率化出来るメリットがあり、それが企業買収を加速させている面は否定できないと思われる。

■メンタリティ
最後にメンタリティだ。
そもそも我々日本人には、値上げ=悪という考え方があるように思う。それはこの国で値上げに直面するたびにムカッと来る自分のネイチャーに気が付いたから、実感としてある。だから、消費者の立場であれば「あり得ない、そんな姿勢だったらもうあそこからは買わないよ」となり、逆に企業側の立場であれば「値上げはさすがにまずいよなー、お客さん離れちゃうなー」となる。

ここで、前段の競争の多寡が問題となる。日本では、競争が激しく、値上げしたら消費者が乗り換えていく先の他のサービス提供者がいる。ブラジルではそれが少ない。だからブラジルではしれっと値上げが悪びれずに行われ、日本では据え置きが敢行されるという構図と理解できる。。。

でも、本当に顧客は離れていくのか?ひょっとして日本人特有のメンタリティが先回りして、すべきであった値上げも打ち消してしまってはいないだろうか。

企業では、担当者が値上げを提案するのは難しい。そんなことして顧客が離れたらどうする、と上司に言われてそれに抗弁するロジックを持つ人はそういないだろう。その上司も、さらに上に対して、値上げの結果売り上げが落ちた場合責任を取りますとリスクテイクしないだろう。となるとスパイラルが発生して値上げの芽は未然に摘まれる。こんな例は単純化しすぎだとは思うけれど、こうしたケースが日本のそこかしこで起こり、かくしてデフレスパイラルが示現したのではないかとも思うのだ。

ブラジルの姿勢を目の当たりにすると、「自己犠牲」や「自助努力」にまみれた日本の産業界が不憫でならない。

昨年来、黒田さんのインフレターゲット2%という明確な目標が世論に広まったということは、副次的に現場の担当者が値上げ稟議を持ち上げるのを後押しすることになるのかもしれない。そうすれば、企業もより健全な売上を回復できるのではないか期待するのである。


ことは単純ではない。ブラジルも国際的な競争力は無く、2億人の内需主導だからできることだという議論は勿論ある。でもそれよりも、日本人のメンタリティの部分で、本来すべきことが出来ていない機会があるならば、それは救済されなければならないと切に思うのである。

2014年10月9日木曜日

人生のかたち

ブラジルはマットグロッソ州、国道沿いの食堂の外で午後3時半、ロングドライブの休憩どき、相棒がタバコを吸い終わるのを待ちつつ漫然と立ち居ると、仕事を終えたオバチャンが出て来た。歩く先にはバイクで待ち受けるオジサンが居て、彼女の分のヘルメットを手渡し、さあ家に帰ろうという何気ない日常の光景が目に入った。これがこの後に繋がる思索の引き金を引いた。


マットグロッソ州は、広大なだけでなくとてつもなくフラットな平地ばかりであるからして、穀物の大規模栽培を可能たらしめ、この20年の間に「平地以外なにもない場所」を、ブラジルを代表する穀倉地帯に仕立て上げた奇跡の地である。
綿実(コットンシード)倉庫から臨む、収穫後の綿花畑と綿花蔵置場







































そしてこの穀倉地帯にはいま、億万長者が無数に存在する。とうもろこし、大豆、さとうきび、綿花・・・。地理の教科書で見覚えのあるような作物たちだが、これらを何千ヘクタールという大農場で栽培・収穫し販売することで莫大な利益を積み重ね、数年ごとに訪れる市況の綾を経験しつつも、20年の間に資産を蓄え一財を成した者達である。一方で冒頭のドライブイン夫婦も、マットグロッソの住人だ。この地に暮らす人々の人生は、どのようなものなのだろう。

もともと何もない土地で一旗揚げようとこの地に移住し、当時最新鋭の機械に対して高額な初期投資を投げ打っていまの成功を得た。ここまで必死に走り続けてきた。きっと色んなドラマがあったはずだ。

サンパウロ州・パラナ州・ミナスジェライス州など日本人移民も多く暮らす伝統的穀物生産地帯と違って、マットグロッソ州は新興生産地帯であるので農地は最初から人手に頼らない効率設計になっている。よって億万長者の大農場は、そこで働く人間の数が極めて少ない。

最初から何もないし、人も居らず、あるのは土地だけだった。その中で成功し、いまうなるほどカネを持つ。だが本拠地のマットグロッソには都会的な刺激が少ない。ある者はヘリを所有し、大都市を行き来しているというが、それとて毎日という訳にはいくまい。

天候のいたずらや投機筋に翻弄される市況を眺めてのハッスルには事欠かないだろう。しかし子息たちは都会を目指して出ていくケースが多い様だ。苦節20年での大成功は、ビジネスマン冥利に尽きるといったところだろうが、あまりに人との接点が少ないが故に空虚な感じにはなりはしまいかと実に余計なお世話な考えが浮上してきた。僕自身この大農園主の暮らしが出来るかというと、例えカネがあったとしてもそうは思わないだろうと。

一方で、冒頭の仲睦まじい壮年夫婦もそれぞれの人生ドラマがあるに違いない。彼らの今あるマットグロッソでの暮らしは、紆余曲折があっての結果かもしれない。我々はフェイスブックで日常の一喜一憂をアップしたりしているが、本当に深刻な事や重大なことどもは挙げられないことを知っている。表層だけの人生ショーウィンドウ、それがフェイスブックの正体だと思う。だからといってフェイスブックを否定するものではなく、それぞれの人のドラマなんて、結局はその人本人の中やごく限られた家族にしか伝えられないことだと思っている。普通の市井の人々と億万長者との人生、どちらがどう良いのかは、結局のところ本人にしかわからないのだと思う。

元々人生の評価なんてものは、人がするものではなくて自分がするものだ。

自分は田舎育ちなので都会的刺激は無用とする人物であると思っていたが、実はそうではないらしいことが今回の旅で浮き上がってきた。どうやら自分は、多くの人との関わりの中で存在する暮らしが好きであるようだ。そうすると、海外勤務でありながら家族と同居し、多くの同僚との接点に恵まれながら農作物のトレーディングや食をキーワードとしたバリューチェーンの構築に勤しむ今の形は、実はベストなんだろうなと今さらながらの確認作業が始まっていた。レンタカーを何百キロと運転しながらふと、時に煩わしいと感じている調整ごとなんかも、そう考えると実はいつくしむべき作業なんじゃないかとも、気が付くと思い始めていた。

翻って、そもそも人はどんな人生を歩むのがベストなのだろうかとよく考えることがある。自分の子供達になにを伝えて行こうかと思う時に、この問いに立ち返る。このとき、あえて「幸せ」という言葉は使わない。きっと人の人生、所詮は禍福はあざなえる縄のごとしなのだろうから、幸せだけを追い求めることが詮無いことだと思うから。だから議論は、何が「ベスト」かということに絞ることにしている。

答えはつまり、自分に合った人生を過ごすのがベストなのだろうということに行きつく。
ではどうやったら自分に合った人生を選択できるか。それは自分の好みを把握出来ていること、また把握した後に、それを可能たらしめる力を持っていることに他ならないと思う。結局自分の好みなんか最後までわからないものかもしれないけれど、だいたい外れてはいないだろう大まかなところを把握するため自問自答する力を、子供達には備えていてほしい。自分の人生を振り返ってみて、最終的には自己満足が出来るオトナになっていてほしい。


ブラジルの広大な自然は、広大すぎて眺めているとときにやりきれなくなる。自分があまりに小さい存在に感じられるからだ。長い移動時間の中でそのうんざり感を何度も反芻することで、自分なりの人生観の確認作業をした。地平線まで延々と続く単一作物の農地、その中のそこかしこで発生しているミニ竜巻、うんざりするほど長く続く一本道、およそ人知の及ぶ範囲の代物ではないレベルの無数さで収穫後の綿花がロールされて転々と蔵置されている絵。。。ここマットグロッソでは輝く農資源と効率経営、成功した農園主と一般市井の人々、それらが混然一体となって一種独特のオーラを出しており、それが旅行者自らの人生を省みさせるトリガーとなっていたりするのである。