2014年10月9日木曜日

人生のかたち

ブラジルはマットグロッソ州、国道沿いの食堂の外で午後3時半、ロングドライブの休憩どき、相棒がタバコを吸い終わるのを待ちつつ漫然と立ち居ると、仕事を終えたオバチャンが出て来た。歩く先にはバイクで待ち受けるオジサンが居て、彼女の分のヘルメットを手渡し、さあ家に帰ろうという何気ない日常の光景が目に入った。これがこの後に繋がる思索の引き金を引いた。


マットグロッソ州は、広大なだけでなくとてつもなくフラットな平地ばかりであるからして、穀物の大規模栽培を可能たらしめ、この20年の間に「平地以外なにもない場所」を、ブラジルを代表する穀倉地帯に仕立て上げた奇跡の地である。
綿実(コットンシード)倉庫から臨む、収穫後の綿花畑と綿花蔵置場







































そしてこの穀倉地帯にはいま、億万長者が無数に存在する。とうもろこし、大豆、さとうきび、綿花・・・。地理の教科書で見覚えのあるような作物たちだが、これらを何千ヘクタールという大農場で栽培・収穫し販売することで莫大な利益を積み重ね、数年ごとに訪れる市況の綾を経験しつつも、20年の間に資産を蓄え一財を成した者達である。一方で冒頭のドライブイン夫婦も、マットグロッソの住人だ。この地に暮らす人々の人生は、どのようなものなのだろう。

もともと何もない土地で一旗揚げようとこの地に移住し、当時最新鋭の機械に対して高額な初期投資を投げ打っていまの成功を得た。ここまで必死に走り続けてきた。きっと色んなドラマがあったはずだ。

サンパウロ州・パラナ州・ミナスジェライス州など日本人移民も多く暮らす伝統的穀物生産地帯と違って、マットグロッソ州は新興生産地帯であるので農地は最初から人手に頼らない効率設計になっている。よって億万長者の大農場は、そこで働く人間の数が極めて少ない。

最初から何もないし、人も居らず、あるのは土地だけだった。その中で成功し、いまうなるほどカネを持つ。だが本拠地のマットグロッソには都会的な刺激が少ない。ある者はヘリを所有し、大都市を行き来しているというが、それとて毎日という訳にはいくまい。

天候のいたずらや投機筋に翻弄される市況を眺めてのハッスルには事欠かないだろう。しかし子息たちは都会を目指して出ていくケースが多い様だ。苦節20年での大成功は、ビジネスマン冥利に尽きるといったところだろうが、あまりに人との接点が少ないが故に空虚な感じにはなりはしまいかと実に余計なお世話な考えが浮上してきた。僕自身この大農園主の暮らしが出来るかというと、例えカネがあったとしてもそうは思わないだろうと。

一方で、冒頭の仲睦まじい壮年夫婦もそれぞれの人生ドラマがあるに違いない。彼らの今あるマットグロッソでの暮らしは、紆余曲折があっての結果かもしれない。我々はフェイスブックで日常の一喜一憂をアップしたりしているが、本当に深刻な事や重大なことどもは挙げられないことを知っている。表層だけの人生ショーウィンドウ、それがフェイスブックの正体だと思う。だからといってフェイスブックを否定するものではなく、それぞれの人のドラマなんて、結局はその人本人の中やごく限られた家族にしか伝えられないことだと思っている。普通の市井の人々と億万長者との人生、どちらがどう良いのかは、結局のところ本人にしかわからないのだと思う。

元々人生の評価なんてものは、人がするものではなくて自分がするものだ。

自分は田舎育ちなので都会的刺激は無用とする人物であると思っていたが、実はそうではないらしいことが今回の旅で浮き上がってきた。どうやら自分は、多くの人との関わりの中で存在する暮らしが好きであるようだ。そうすると、海外勤務でありながら家族と同居し、多くの同僚との接点に恵まれながら農作物のトレーディングや食をキーワードとしたバリューチェーンの構築に勤しむ今の形は、実はベストなんだろうなと今さらながらの確認作業が始まっていた。レンタカーを何百キロと運転しながらふと、時に煩わしいと感じている調整ごとなんかも、そう考えると実はいつくしむべき作業なんじゃないかとも、気が付くと思い始めていた。

翻って、そもそも人はどんな人生を歩むのがベストなのだろうかとよく考えることがある。自分の子供達になにを伝えて行こうかと思う時に、この問いに立ち返る。このとき、あえて「幸せ」という言葉は使わない。きっと人の人生、所詮は禍福はあざなえる縄のごとしなのだろうから、幸せだけを追い求めることが詮無いことだと思うから。だから議論は、何が「ベスト」かということに絞ることにしている。

答えはつまり、自分に合った人生を過ごすのがベストなのだろうということに行きつく。
ではどうやったら自分に合った人生を選択できるか。それは自分の好みを把握出来ていること、また把握した後に、それを可能たらしめる力を持っていることに他ならないと思う。結局自分の好みなんか最後までわからないものかもしれないけれど、だいたい外れてはいないだろう大まかなところを把握するため自問自答する力を、子供達には備えていてほしい。自分の人生を振り返ってみて、最終的には自己満足が出来るオトナになっていてほしい。


ブラジルの広大な自然は、広大すぎて眺めているとときにやりきれなくなる。自分があまりに小さい存在に感じられるからだ。長い移動時間の中でそのうんざり感を何度も反芻することで、自分なりの人生観の確認作業をした。地平線まで延々と続く単一作物の農地、その中のそこかしこで発生しているミニ竜巻、うんざりするほど長く続く一本道、およそ人知の及ぶ範囲の代物ではないレベルの無数さで収穫後の綿花がロールされて転々と蔵置されている絵。。。ここマットグロッソでは輝く農資源と効率経営、成功した農園主と一般市井の人々、それらが混然一体となって一種独特のオーラを出しており、それが旅行者自らの人生を省みさせるトリガーとなっていたりするのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿