2015年6月12日金曜日

啓蒙活動

「誰だ?」電話口の向こうから、その電話をかけてきたブラジル人がそう聞いてくる。聞きたいのはこっちなのだが。

それはどうやらブラジルの文化であるらしく、まず誰が出たのかを名乗れと言うのだ。そのルーツは呼び出しを受けて電話に出た人間が誰であるかを確認する必要があった交換手の時代にまで遡るというのだが、つくづくおかしな文化である。

かけた人間が、出た人間に対していきなり「誰だ」と聞くのである。だいいち、自分でかけているのだからそもそも誰にかけているか承知の上でかけたはずだ。日本人的な感覚で言えば、失礼極まりない。そしてセキュリティの観点からも、知りもしない人間に対して、そうやすやすと自分の名前を名乗りたくもない。

周辺のブラジル人に聞くと、悪気は全くないし、それはあまりにも当たり前のこと過ぎて皆何も違和感を感じずに日々繰り返しているのだという。自分でかけて誰だと聞くやりとりを、ごく普通のブラジル人である友人が隣でやっているのを聞いたことがある。

そんなとき私はいつも
「そういうお前こそ誰だ」
とキレ気味に答えるようにしている。

まぁ、普通に日本人的に腹が立っているから素直にそれを口に出しているという側面も否定できないのだけれど、やはりポイントは「ブラジルの常識は世界では非常識かもしれないよ」と警鐘を鳴らすところにある。そうして聞き返すとだいたい向こうはおとなしく答えてくる。どうやら本当に悪気も無く普通のやりとりであるようだ。それでもなお、あまり褒められた文化ではないと考えるのである。

あ、電話だ。今日もキレ気味で地道な啓蒙活動は続く。

2015年6月6日土曜日

さすらいの研ぎ職人

またしても、市中で面白い商売人を見つけてしまった。
価格は17レアル(約280円)、移動式の刃物研ぎ屋・ワグネル氏である。
この道、実に20年。
何がすごいかって、彼の商売道具のこの機械が実に良く出来ているのである。
このタイヤ、移動の為の車輪であり、研ぐ際には研磨用の刃を回す動力になるのだ(!)。
なんという効率の良さだろう。

作業時には機械を立て、タイヤは宙空に。車軸と連動するゴムバンドを研磨機のついた軸に掛け、浮いた車輪を手で回して研磨機を回転させる動力とする。移動時にはバンドを外す。


さらに興味深いのは彼が移動しながら客を集める笛である。














ラーメン屋台のチャルメラよろしく哀愁を帯びて鳴らされるこの笛は、サンパウロの街に実によく響くのである。

昨年取材をした移動花屋、路上家具修理屋に続いて、こうした面白商売が続々と見つかるこのサンパウロ。
日本にも昔は色々と存在したであろう、こうした商売。
彼らの日々たくましく商う姿勢に、多くの示唆をもらう毎日である。

2015年6月4日木曜日

KIWIバーガー

大学4年の卒業前に、ニュージーランドへ一人旅に出た。テントを持ってヒッチハイクで国中を廻る意図だ。かねてより憧れていたこの国の美しい川や湖を訪ねてみたいということと、英語力を鍛えたいという希望があってのNZであった。

オークランドから入ってクライストチャーチより抜ける3週間の道中、実に62台の車をヒッチハイクで乗り継ぎ、公園などにテントを張り貧乏旅行をした。予算は極限まで切り詰めていたので、常に腹を空かせていたのを覚えている。初期投資としてスーパーで買ったスライス食パンに今日は何を挟んでやろうか、ツナ缶か、喫茶店でコーヒーだけオーダーした時に拝借したバターやジャムか、日々それだけを考えていたような気がする。

相当にひもじそうに見えたのだろう、ある時、ヒッチハイクで乗せてもらった農園主の男性に、メシ食うか?と聞かれ、ハイと答えたら農園内の母屋に案内され、サンドイッチを馳走になった。すると「さあ、いこうか」と言われ、当時英語が良くわからなかったけれど働かざる者食うべからず的なことを言われ、散乱した切り株をひたすらトラックの荷台に積むという重労働をさせられたことがあった。

別のケースでは、30代くらいの男性ドライバーに、「腹減ってるか?」と聞かれ、今度は警戒してさして減ってないと答えたのだが、上手いもの喰わしてやると強引に自宅に連れ込まれた。その時に至って初めて、ヒッチハイクの人間を乗せるにはどう考えても綺麗すぎるメルセデスに、ふかふかのファーみたいな敷物が敷いてあったこと、妙に柔らかい物腰などから、そっちの系の人であったと気が付いたけれど、時すでに遅しである。到着した彼の自宅には巨大なボートが陸置きされており、暗がりの中でも十分にそれとわかる相当ゴージャスな邸宅であったことからさらに身の危険を感じ、慌ててサンキューと言い残しバックパックを掴み逃げ去ったことがあった。幸いにして主は追って来なかった。

旅も大詰め、クイーンズタウンという街に向かう行程では、何を思ったかヒッチハイクではなくインターシティ長距離バスを使うことにした。理由は忘れたが、多少疲れたとか先が見えてバスに金を使えるとわかったとか、そんなところだと思う。そのバスで偶然隣り合わせたのは誠にいけすかない貧弱な日本人学生で、話を少ししただけでコイツとは合わないと思わせる性格の持ち主であった。それが故に途中のトイレ休憩で私は席を変え、一人車窓を楽しむモードに切り替えて彼を拒絶することにした。

クイーンズタウンについてすぐ目の前に拡がるワカティプ湖畔に投宿した。といっても物陰に一人用ドームテントを張るだけであるが、重いバックパックを下ろして寝転がれる解放感はたまらないものがあった。

ひとりゆっくりと日没前のひと時を楽しんでいると、外から声を掛ける日本人が居て、テントを這い出してみるとそこにいたのはなんといけすかない彼だった。「この街でダンロップとデカデカと書いてるテントを見たら日本人の君しかいないと思ってさ」と嫌味とも何とも判断のつかないことを言いながら、彼はメシでも食わないかと僕を誘った。とにかく彼の性格が気に喰わなかったし、2週間以上一人であったから、そうした付き合いももはや面倒に感じられ、断った。

小一時間して彼はまたダンロップテントを訪ねてきた。

今度はなんだとつっけんどんに対応すると、マクドナルドの紙袋を提げて僕にくれるという。一緒に食べようと。中身はニュージーランドご当地メニューのKIWIバーガー(ニュージーランド人の愛称KIWIから取ったネーミングである)のコンボであった。

ついさっきまであそこまで彼を邪険にした自分がすんなりとその差し入れを受け入れるのはなんとも気恥ずかしく感じられたが、そんなチンケなプライドは数週間の慢性的空腹症には勝てる由もなく、あっさりとありがたく受け取った。宝石やハンドバックなどの贈り物に態度を翻す女性の心持とはこんなものかと想像したりもしたのを今のことのように思い出す。


湖畔でいけすかない彼とふたり並んでKIWIバーガーをついばみながら何を話したのかはもはや覚えていないけれど、その味たるや人生最高の称号を与うるにふさわしいものであった。バーガーを食った後、彼は一切コンタクトしてこなかったし、連絡先なども交換しなかった。僕はその後結婚して妻や家族を伴ってこの湖に2度ほど旅行で戻ることになるのだけれど、その都度ダンロップテント横のいけすかない彼と極上KIWIバーガーを思い出すのだった。

2015年6月2日火曜日

レシート下さいマン

           「レシート下さい」
店員       「・・・」

私が小学校3年生のころ、お店で発生したやりとりである。
無言の店員は、めんどくさいことを顔に出している。

このころ、母が足を骨折して2週間ほど入院していた。
自分が入院不在の期間中、家庭の会計の実態を把握する為に、母が子供たちに「何かを買った際にはレシートをもらいなさい」と命じていたのであった。

後で聞けば、母は「大きな金額のものだけでよかったのに」とのことだったのだが、そんなことは知る由もないのである。息子はただひたすらにせっせすら意味も分からずレシートを集めるのである。100円のポテトチップスを買う時にも、50円のガリガリ君的なアイスを買う時にも。近所の酒屋でも、文房具屋でも。

ほどなくして私にはあだ名がつくことになる。「レシート下さいマン」というものである。近所の商店にはだいたい同じような学年の子供が居るもので、たまたまレジ番をするそれらの友人経由でこのエピソードは伝わったものと思われる。

僕はそのあだ名に気づいた後も、母が退院するまではレシートの請求・収集を止めなかった。まとまった金額でなくとも忠実にレシートを集め続けた私。妙ちくりんなあだ名と一緒にクラスの友達に馬鹿にされてもレシートを集め続けた私。家計の為になる、母の為になるとの一心で集め続けたレシート。


退院後の母に、褒めてもらったことがただただ嬉しかったことをいまでも覚えている。