先日、月に一度の水泳に行ってきた。
1kmを25分くらいノンストップで泳ぐことを習慣としている。
ざっくり一月に一度、無性に泳ぎたくなる。
無性にリセットしたくなる、というのが正しいだろうか。
水泳の良いところは、ランニングより純度高く無になれるところだと思う。
そして全身をくまなく使って運動し、関節が伸びる感じがしてとても良いのだ。
つまり心身ともにリセット感があるところが、とても気に入っている。
■水泳の恐怖
子供の頃、私の中で水泳は超がつく苦手科目だった。
小学3年生まで、5mしか泳げなかった。だから水泳の授業が、苦痛で仕方なかった。
水は怖いし、だいたいにおいて授業の日は寒いし、みんなで浴びるあのシャワーは
やけに息苦しいしと。
さすがに5年生になるにあたり、これじゃモテないよなということで一念発起、
町の図書館へ出向いて水泳の本を読み漁り、独学で25m泳ぐべく模索を始めた。
本で座学→町民プールで闇練→別の本で座学→町民プール というのを繰り返しているうちにある事実に辿り着いた。オレは水の中で目を閉じているから怖いのだ、と。
実にバカバカしく、単純な発見だったのだが、これは私の中で人類史で言うところの「火の発見」クラスに大きな出来事であった。
水の中で目を開けるのは痛かったが、怖く苦しく前が見えないよりはるかに良かった。
私は拙いフォームながらも、水の中で目を開けるという原始的な解法を得て、25mを
泳ぐことが出来た。だからといってモテはしなかったが、悪目立ちする様な有様ではなくなっていた。
そしてその後、水中メガネというものの存在に気がつくことになる。。。
■もがいて模索した経験がベースとなること
小学校高学年で、自らブレイクスルーに辿り着いた経験はその後の人生で大きな基盤となった。
世にメソドロジーはたくさんあれど、まずは自分で飛び込んでみて模索して、そうしてから
メソドロジーに頼ってみるのが吉、という感覚が備わったからだ。
傍目にはこれが遠回りに映るかもしれないが、自分にとってはこれが近道だと思う。
ブラジルに4年住んでいる間、ランニングのやりすぎで膝を故障した。
負荷の低い運動を探し、半年だけ水泳教室に通ったことがある。
マリオ先生という元水球ブラジル代表オリンピアンがオーナーですというその教室は、幸にして職場の近くにあった。
しかもそのマリオ直々に教わることが出来るというだけあって、こぢんまりとしたその教室は、サンパウロ中心街区に勤める一般のサラリーマンやOLで賑わっていた。そのマリオ先生に教わって触れたのが、私にとって人生初の水泳メソドロジーであったのだ。
呼吸法、足と手のタイミング、脱力、身体の伸び、どの教えも眼からウロコだった。
その昔小5で読み漁ったハウツー本や、さんざんもがいた時に浮上したクエスチョンマークが、30年経って蘇り、解きほぐされていく、そんな感覚だった。
この時、メソッドが活きる為には、もがき苦しんだ結果としての疑問や不満といった類の累々が、ベースとして蓄積されていなければならないのだと感じたものだ。課題感があればこそ、メソッドが染み込むように活きるという体験をしたのだ。
■習慣としての水泳
さて、今回は貯まったスタンプカードで区民プールが無料で利用できた。
小5の僕からしてみたら、信じられない趣味を持ったことになる。しかも1kmも泳ぐなんて想像だにできないだろう。
これからも自分のゆったりペースで、陸をランニングし、水を泳いで、身体のバランスを保っていきたい。
そして新しいコトに当たる時は、まず我流で取り組んで課題のベースを構築し、そこにメソドロジーを振り掛けて苗を育てたいと考えている。
