■野球狂想曲
小三の息子が野球を始めて半年になる。
3ヶ月ほど最初のチームに所属し退団、1ヶ月ほどチーム浪人生活をする中で、様々なチームを広く見学し、その上で選んだチームに入り2ヶ月が経過した。
今のチームはPCG(Players Centered Games)という新たな概念に沿って運営されているチームなので、違和感は少ない。
だがサッカー部出身の私がここ半年で覗いてみた野球業界のあれこれは、相当に違和感の連続だった。
これは自らが所属したチームからの経験則ではなく、試合の対戦相手を通してみたり、見学を通してみたりして、数多くのチーム(そこにいるオトナ達)を観察した上で得た感想である。
これら違和感を感じたというのは、異種スポーツ出身という背景のみならず、私の仕事がネットベンチャーであり、日々updateすることを生まれながらに宿命付けられた存在であるというのも、ひょっとすると関係しているのかもしれない。
いずれにせよ息子はいまとても楽しく野球に取り組んでいるので良い状況なのだけれど、それはそれとして私が感じた違和感をここにシェアしたいと思うのだ。
■野球の魅力
というのも、その昔自分の幼少期、サッカーを本格的に始める前、近所の空き地や路上でプラスチックバットとゴムボールで友人たちと三角ベースみたいなことをして飽きもせずひたすら遊んだ記憶があって、今回自分の息子も興味を持ったように、野球は本来、子供たちを惹きつける要素をたくさん持つスポーツであったはずである。
だがおよそ35年の時を経た私の目に映った野球業界は、驚くべきガラパゴス文化のカタマリであったというのが、なんだかとても残念に思うからである。
■違和感を構成するエピソード・サッカー経験者から見た野球あるある(個人的見解)
・野球をする子供達は、常にガミガミ何かをオトナ達に怒られている(サッカーも厳しいチームは厳しいが、少なくとも箸の上げ下ろしにガミガミ的なノリは無い)
・野球をする子供達は、他のスポーツに比べて褒められることが極端に少ない(ダメ出しをされる件数が褒められる件数を極端に凌駕する、と言えば的確だろうか)
・野球は一個一個プレイが止まるので、その都度お説教の様な時間が出来てしまう(サッカーは流れが大事なので、ピタリと止めることはそうそうない)
・野球には、覚えることやしきたりがたくさんある(それ故に子供たちの中にも年功序列的ヒエラルキーが形成されがち)
・例えば、試合中のバット引きやボールボーイといった丁稚作業を経て初めて一人前といった認識があったりする
・野球は頭でするものだというオトナから見ると、ミスをする子供は、ボーッとしているからつまり頭を使っていないから失敗するのだと分析される(子供は失敗するもの、という考え方はどこか遠くにうっちゃられている)
・野球経験者は、『キッチリ』していることを求める。それ故に、『キッチリ』していない子供をひどく叱る(それが低学年カテゴリであっても)
・整列の時につま先を揃えて並ばなければならない、ヘルメット 、バット、グローブは綺麗に並べなければならない(その方が気持ちが良いだろう?強いチームはそういう事が出来ているのだゾと言う)
・野球経験者は、そつのないプレイを尊ぶ風潮があり、そつのない『ちゃんと』した『良い子』のプレイヤーが褒められる(そうするとオトナの目をビクビクと常に意識して器用なだけの子供が量産されてしまう気がするのだが)
・オトナはオトナの視点で技術指導をする為、積み上げが効く世界観前提でロジックを組み立ててしまう(子供の時なんて、昨日出来たことが明日突然出来なくなるなんてざらのはずなのに。積み上がっていないとなじられる)
・オトナはかつて自分も子供だったことを忘れてしまう(嘆き節やボヤキ節が中心となり、ネガティブな言論が大勢を占めやすい。何故なら子供には出来ないことが多いから。かつて自分もそうだったはずなのに)
・自分の息子に対して、異常に熱くなり、暴言を吐くパパコーチが居て、それを周囲は黙認する
・チームによっては監督コーチも罵声指導をしたり、今のはなんでだ?と20回なじるなどの追い詰めアプローチを取ることが黙認されていたりする(低学年に対しても)
・子供たちが『楽しく』野球に興ずると、『ゆるむ』から、『怪我をするモトだ』ということなのであるからして、『引き締めて』やらねばならないという言説が定着している
・『どうせやるなら勝たないと意味がない』という言説が定着しているチームが少なからず存在している(果たして本当にそうなのだろうか)
・軍隊的な規律を持ったキビキビとした行動を取ることが、『爽やかで気持ちの良い野球青年』像であり、細かい点にまで気の配れること、それが上手い野球に繋がり、そういう意識を持ったメンバーが揃うと強いチームが出来上がる、という言説が定着している
・朝、犬の散歩で歩いていると、近所のグランドで自分の息子と思しき4年生くらいの少年に千本ノックみたいなものを浴びせ、肉体的にしごきながら精神的にも罵倒して人格否定している親と出くわすことがある。そして私はその様な親子を少なくとも2組は知っている。その『練習』が終わって帰るシーンにも遭遇したことがあるが、親はさっさと一人で帰り、後片付けは全部息子にやらせる。巨人の星的なイメージを背負ってのことなのだろうか。その光景を見るたびに、毎度涙が出そうになる。
・試合の時、母親がベンチの首脳陣にお茶を出す文化が残っていたりする
・さすがに今は無いとのことだが、監督の試合弁当を選手の母親が当番回り持ちで作っていたチームもあったとかなんとか(これは噂だけ聞いた。都市伝説かもしれないw)
・・・などと並べてみたが、みなさんにはどう映るだろうか。
野球素人が何か言っとるわ、かもしれない。
そういう甘いことを言っているから、強くなれない、というのもあるのだろうか。
まぁ、それでも尚私が言いたいのは、上記の事柄に触れるたびに、強い違和感とストレスを感じました、そして業界素人の私にはそれらを表明したり共有するのはとても難しい事でした、ということである。
■野球で対峙するもの
ここでふとある考えが浮上した。
サッカーと違って、野球には相手以外に対峙するものがあるから、こういう空気が出来上がったのでは無いかという仮説だ。
それは『時間』だ。
『キッチリ』とか『ちゃんと』しなければならないのは、このスポーツは時間を相手にして戦うものでもあるからなのではないか、と。
サッカーなら相手を崩して相手より多くのゴールを挙げれば良いが、野球は攻撃側なら打撃+走塁というワンシーンの中でやらなければならないことが存在していて、守備側なら走者が塁に到達する前に捕球して送球して受け手が捕球して触塁しなければならないと言う様に。
サッカーが概して個性に対して大らかなのは、そういう違いがあるからなのだろうか。
サッカーで指導が厳しくなるとしたら、せいぜい相手に対するファイトの部分とか、体力トレーニングに対する自らへの向き合い方、といった要素になって来る。
だとしたら、野球チームの指導がなんだか『世知辛く』なってみたり、時として指導が人格にまで及び兼ねないというのは仕方のないこと、と言う風になってしまうのだろうか。
だとしたら、子供が野球から離れてより自由で大らかなスポーツを選んでいくと言うのは避けられない流れということになってしまうのだろうか。。。
■チーム方針
結論として、親としては、数あるチームの中から、子供の個性に合ったチーム選びをすることが肝要だということになろう。
だけどこの結論をもって、『チームの運営方針はそれぞれだから、個々のチームの方針に異を唱えるつもりはない』という風には終わりたく無い。
今の時代に上記の様なムードで運営されているチームが存在するのは、野球人口の減少に繋がると考える。
現に、日本の少年野球チーム数は減少の一途を辿っている様子である。
私の様な未経験のオトナが深く入り込んで意見するにはハードルが高く、外部の声や血が、入りにくい業界でもある。
自己変革や改革が出来にくいのはそうした外様の風が吹かない業界特性も手伝っているところもあるだろう。
いずれにせよ、私はこの違和感を背負ったまま、いま小三の息子がこれから卒業までの3年半ほどをこの野球業界で過ごすことになる。
現在息子が野球を楽しんでいるのは大変ありがたいことだ。
なので、これからも野球業界のあるあるを眺めつつ、問題意識を抱えながら、息子の成長に寄り添って行けたらと考えている次第だ。