2023年9月17日日曜日

少年野球の球審をして思うこと

ここ1年半ほど、息子がお世話になっているチームで審判の役割を務めている。


■審判の分担

少年野球の業界では、練習試合や公式戦で、『審判出し合い』と呼ばれる制度を採用していることが一般的であり、それは4人制で運営される試合の2名ずつを対戦相手と出し合うということを意味する。公式戦も勝ち上がってトーナメントの上の方になると、大会運営側が4人の公式審判員を出してくれたりするが、一回戦や手前の段階では相互出し合いがポピュラーなのである。


その際に、『タテ』と『ヨコ』を分担し合うという了解事項があって、『タテ』とは球審と2塁審を指し、『ヨコ』とは1塁審および3塁審を指す。チームAさんは今日はタテをお願いします、なのでチームBさんはヨコです、というふうに。


この中で最も負荷が高いとされるのはホームベースでキャッチャー後ろに控える球審であり、他の塁審と異なりストライク・ボール判定やホームインの判定を含む内野全般(1〜3塁ベース付近は除く)のジャッジ、並びに決められたメカニクスに基づいたフォーメーションの指揮を請け負うことになる。


この球審はプレッシャーが高いので、基本的にはお父さん達は皆敬遠する役回りである。

だが私はこの球審を進んで担う様にしている。


■審判への批判

お父さん審判は、完全にボランティアである。その上、両チーム出し合いなので、持ちつ持たれつ、お互い様のところもある。露骨に偏った判定をすれば批判もされようものだが、基本的には善意でやっている4名が初めて顔を合わせたその日に協力しながらアドリブで連携して試合をつつがなく終えるように進行するのであって、規範を持って公正に務めるのが精一杯。手心を加えようなどとは思わないし、思う暇もない。


それでもベンチから批判が聞こえてくることがある。その発信源は、大人である。

教育の場でもある少年野球の現場で、その様な姿勢を大人が示すことに、大きな違和感を感じることがある。


それでも毎試合、誰かがやらねばならないわけで、もし監督コーチといったチームスタッフが審判をやるとベンチでの子供達へのケアが減ってしまう。やはり審判は父親でカバーするのが理想だ。だから私は審判を務めている。1年半で球審だけで45試合を経験して、場数を踏んだことで多少のことでは驚かなくなり、来月には県の公認講習を受けに行くことが決まった。


チームの皆さんからは労を労ってもらえる。チームの大人も子供もみんな労ってくれる。

ただ、ミスをした時に凹むのは自分だ。多くの時間を勉強に費やさねばならない。

無事に終えて褒められることは特になく、ミスをして批判をされることがあるという、割に合わない構図がある。

それでもやっていて楽しいのは、自分はこういうのを好む性格にあるからだと考えている。

『誰かがやらなきゃならないことを自分が担っている時の役に立っている感』が好きなのだ。


このことについて思い出す一コマがある。


■運動会の1,500m走種目

自分が中学3年生だった頃、運動会の種目決めをクラスでしていて、当時私は級長(学級委員長的なポジション)を務めていたので司会をしていた。玉入れ、綱引き、騎馬戦などなど、様々な種目に誰が出たいかという希望を募り、被りがあればジャンケンで決めていくという話し合いをしていた。最後に空席として残ったのは1,500m走で、持久走をみんなの目の前でやりたいという酔狂な人間は陸上部くらいなもので、出れば皆の目前で何周も恥を晒すことになりそうなのは自明と言えた。


この空席が埋まらなければ会が前に進まない。司会者である自分で手を挙げた。

結果、全学年で出走した中で下級生にも抜かれ、みじめな形で競技を終えた覚えがある。

それでもその時の自分は、組織の大事な役割をこなした達成感で満足していた。

自分は組織に貢献したのだ、と。


■自作自演

こうした自作自演のメンタリティは、我ながらヘンテコな思考回路だと思う。

だが同時に、こうして自己満足することで、自らの精神衛生を保つのにとても役立っているのだとつくづく感じる。


これからも引き続きマッチポンプな人生を選択していく気がしてならないのである。 

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