2021年12月10日金曜日

準ミス・ユニバース Yendi Phillippsさんと

今日は会食の予定があるので、珍しくジャケットに袖を通した。

15年前に買い、ダイエットして体型が変わった後もリサイズし、とても大切にしている紺色のジャケット。これを着ると、このジャケットをステキねと褒めてくれた人、Yendi Phillippsさんを思い出すことになる。

■ブルーマウンテンコーヒーをPRしよう

私が商社でコーヒーを担当していた2011年、僕は彼女を日本に招聘するプロジェクトを推進していた。

彼女は前年のミス・ユニバースで準優勝したジャマイカ人(Miss Universe 2010)で、

ジャマイカ・ブルーマウンテンコーヒーの販促PRイベントに彼女を起用しようという訳だ。

私は、複数の輸入商社が所属する協議会のプロモーション担当者として、このプロジェクトを発案して実施する立場にあった。


この企画は同協議会のあり様や考え方からすると完全に異色なものであったが、兼松の上司であったY.I.さんのアドバイスと応援のおかげで鋭意進めることが出来た。


国内協議会参画企業の意思統一、新たな振興資金の運用方法策定及びその使途第一号となるYendiプロジェクトの企画立案コンセンサス取得、現地ジャマイカ側の輸出企業組合からのコンセンサス取得、PR会社選定コンペ実施、故人であるジャマイカ現地駐在のNさん(Nさん本当にありがとうございました)経由でYendiのマネージャーを介したギャラや条件交渉、予算管理。。。いま思うとあれはとてもcreativeなプロジェクトだった。


■商社のおしごと

そもそも商社というものは、一言で言うと『継続する貿易業務を回しベースとなる収益を生みつつアンテナにかかる新しいエッセンスを商売に落とし込む仕事』だ。


商社に働く人間には2種類あると思っていて、それは前段(通常の貿易)に向いた人間と、後段(エッセンス落とし込み)に向いた人間とだ。多くの商社の各事業部においては、前段と後段と同じ人間が担っていたり、同じ課の中で両方をやっていたりする。つまり一つの人間や一つの課が、あたかもひとつの会社組織であるかの様に包括的に機能することを求められる。


そしてこのYendiにまつわる一連の仕事は、後段の要素たっぷりの仕事であって、完全に『後段タイプ』の私には、ど真ん中の大好物だったという訳だ。だからその時の記憶は楽しい思い出しかない。

気がつけばあれから10年経つ。


■Yendiからのリクエスト

そのYendiが来日するひと月前だっただろうか、ひとつのリクエストを頂くことになる。

時は2011年6月。そう、震災の3ヶ月後なのだ。


彼女は被災地を訪問してコーヒーを届けたい、それに関わるコスト自前で負担するから、とこう伝えてきたのだった。私は協議会の他のメンバーさんにお願いしてジャマイカ大使館経由で宮城県多賀城市の避難所への日帰り訪問をセットしてもらった。日本在住のジャマイカミュージシャンと一緒に行くことで、コーヒーと音楽とで被災されたみなさんに少しでも何かを届けようという形となり、Yendi一行の滞在後半にその企画はセットされた。


PR会社の企画は、伊勢丹デパ地下や銀座7丁目交差点でのゲリラ的プロモーション、鹿野農林水産大臣(当時)を表敬訪問する等の活動を通してTV情報番組やweb記事への露出を誘引するものであった。トータルで1週間程度の滞在だっただろうか。その忙しいスケジュールの最後に、被災地訪問を付け加えたのだった。


津波の爪痕残る街を一通り視察した後、当時避難所となっていた多賀城市体育館の仕切られた空間を実際に目の当たりにして、Yendiとマネージャーさんは絶句していた。もちろん私にとってもそれは壮絶な印象を伴う体験であった。それでもイベントタイムになるとYendiは快活にスピーチをして、ミュージシャンの奏でるボブ・マーリィの曲をみんなで歌ったり踊ったり、その場で抽出したブルーマウンテンコーヒーを配ったりして、楽しい空気感にしてくれた。


■Yendiの人柄

彼女とマネージャーさんと過ごした当時の1週間は、今となっては遠い昔の良い思い出だ。美しいだけでなく、その外連味のない素直な性格は身に纏うオーラに表れていて、きっとこうでなければ世界を制する事は出来ないのだろうと思わせるに十分だった。


全行程にフルアテンドした自分からおねだりするのは憚られたので、彼女と写した写真も無いし、コンタクトももらっていない。

いま私はSNSフォロワーとして彼女のその後の活躍を遠くから眺めているだけだ。


でも2日目にホテルへお迎えに上がった際に私のジャケットを褒めてくれことだけは、大切に心にしまってあって、こうして時々思い出させてもらっている。


■もう一つの思い出

協議会メンバーにはUCC上島珈琲株式会社さんも加盟しており、現ユーシーシーホールディングス株式会社会長の上島達司さんからお褒めの言葉を頂いたことも深く記憶に残っている。


被災地訪問の前日、協議会とYendiとで内輪のディナーがあった。会には上島会長も出席された。

散会の折、上島会長のお車でYendiとマネージャーさんを送って頂けることになった。協議会メンバーはお店の外でお見送りしていたところ、『武井さんあなたは一緒に乗りなさい』とのことで突然呼ばれ、会食会場からホテルまで15分ほどの道のりをご一緒した。その際に、何気ない会話の中から私の住んでいるところを聞かれ、お答えしたのを覚えている。今回の私の働きについても労いの言葉を頂いて、とても嬉しかった。ホテル到着後、お二人を無事に送り届けてその日は自宅に帰った。


翌日、被災地訪問を無事に終え都内に帰還した私にユーシーシーさんから電話が入る。

『会長から、武井さんにお車をとのことでしたので、ご自宅への帰宅に使って下さい』

とのことだった。指定の場所には黒塗りのハイヤーが私を待ち構えていた。


当時私は葉山に住んでいたので、大いに助かったことは言うまでもない。

が、それよりも何よりも、あのお立場から私の働きを見て頂いて、当時30代の一担当者であった私にかくも手厚いご配慮を頂いたことに、大きな驚きを覚えた。大きな組織で人を統べるお立場の方の、真髄に触れた、一生忘れることのない貴重な体験となった。

2021年12月2日木曜日

私を訪ねて来てくれた人のあること

僕のブログにお便りを頂いて、その方と実際に会った話を。


ある日突然飛び込んだメッセ曰く、『いつも武井さんの記事を見て情熱やパワーをもらってます。私もブラジルに3年間住んでいたこともあり、武井さんがされているプロジェクトにすごく魅力を感じていて(略)もし良ければこれまでの経験やいま挑戦していることなどお聞かせ願えないでしょうか私は(続く)』


と言うことですぐさまこの青年と会うアポを取り付けた。


彼は現役サッカー選手で、ブラジルで3年プレーした後、その他の海外でもプレーし、現在日本でサッカー選手をしながらビジネスも手掛けていつつ、夢として思い描いている形を実現する方法を模索している、という人であった。


当日は、彼と一緒にビジネスを模索しているという同世代のビジネスパートナー(彼もブラジル時代に同じチームでプレーしたサッカープレーヤーであり、ルームメイトでもあったという)も一緒に来てくれて、3人でブラジル談義に花を咲かせ、これからの人生について共に語り合った。


20代半ばの彼が、私のしていることに関する質問を投げ、これに対して私が想いや考えを語る。その答えを彼は熱心にメモを取りながら聞いている。そんな調子なので私もつい興奮して、脱線しながらあっという間に時間は過ぎた。


この1時間だけでも、私にとっては充分に良い刺激となった。だいいち、私が発信したいと思い立ってブログに書いて来たことを読んでくれて元気付けられたと言ってくれる20代の青年が存在するだけで、とても嬉しかった。


結局彼らとは盛り上がって一緒にランチしてそして別れた。僕のこの先と、彼らのこの先に何があるのか誰もわからない。


そしてこの僕の考え方が彼らにどう影響をするのかしないのか、それも何もわからない。


ただ、もがいている自分を見て、その有り様に興味を持ってくれ、訪ねようと思い立ってアクションしてくれた人が居ること、それだけでもこのブログを立ち上げた価値があったと感じている。


引き続き、等身大の僕のギッコンバッタンを、世の中に見せつけて行く次第(笑)


2021年11月28日日曜日

能見投手コーチ

2021年の日本シリーズが今、終わった。結果はヤクルトが4勝2敗で日本一となった。

少年野球を今年始めた息子とソファに並んで座って観戦出来たのは、感慨深いものがあった。


何かを一緒に見ていてもいつも落ち着きなくフラフラと動き回ってしまうはずの息子が、今日は隣にじっと座ってプロ野球選手の一挙手一投足を固唾を飲んで食い入る様に見つめていた。彼の健全な成長を確認する様でとても頼もしく感じたし、画面を見ながらもたまに二人で言葉を交わし合うのも最高だった。


その最終戦でひときわ渋く輝いていたと私が感じたのが、能見投手だった。


能見投手はオリックスの現役選手でもあり、投手コーチも兼任している42歳。


それが延長11回、相手ヤクルトの4番村上を抑えるためのワンポイントで登板。

均衡した同点で迎える相手主砲をクールに仕留めた能見さんの姿に、私の心は大きく動かされたのだ。


相手の村上は今や日本を代表するスラッガーで、21歳。半分の年齢差もある強打者を、経験に裏打ちされた冷静さで打ち取る様は、時間としては短かったものの、熟練剣士の立ち居振る舞いを眺めている様で、そこはかとない美しさを感じたのだった。


とまぁそんな話は息子氏には通じるわけもないので、彼の語る外国人打者の特徴的な打法や、彼なりの分析に相槌を打つなどして楽しく観戦をした。いずれ私の年代になった息子とこうした侘び寂びの様な世界観をソファで隣り合って語ることができたらそれはそれは楽しいことだなぁと高津監督の胴上げを見ながらひとり感慨に浸った次第(息子は明日練習があるので12回で決着がつかなかったタイミングで寝るように言った)。

2021年10月29日金曜日

ブログのこと

昨日の投稿には、115件のアクセスがあった。これは結構早いペースだ。自分の考えを公開すると言うことは恥ずかしいことなのだけれど、いざ思い切って実行すれば、こうして反響を手にするというのは、有り難く、嬉しいことである。ネタによって反響の伸びがある時と、全く伸びない時と大きく分かれるのも興味深い。

このブログへと繋がるリンクは私のFacebook上にしか貼られていないので、その大部分が私のFB友人の皆様によるもの、と言う訳だ(オーガニックな外部流入もごくごく少ないが、記事によってはあるにはある)。

2013年の5月、ブラジル駐在前に『ムンド・ノーヴォ(=新しい世界)』を開設、現地で起こる様々な事柄を書き留めていこうと始めてみた。投稿して来た記事の本数は、これで139本目となる。

気がつけばブラジル駐在を終え帰国して転職、副業始めて自分のお店やりたいと、自分の生き方がどんどん変わっていった。だがブログタイトルは変える必要が無かった。新しい世界を覗きに行こうという好奇心は、一貫して変わらなかったからだ。

過去の記事を振り返ると自分のその時考えていたことなどが時系列に連なっているので自分史の整理になるというオマケもついていた。

お気楽に勝手気の向くまま書き進めた結果、開設から全期間で集めたPage Viewは4.9万となっている。一番多いアクセスはブラジルで運転免許を取るノウハウ記事。その次に飲食店開業に向けた会社を作った話。興味深いのは『新ブログ開始!』の初回記事が3位にランクインしていること。これはどういうことなのだろう。

ま、引き続き気の向くまま綴っていきたい。


2021年10月28日木曜日

遠くを見る覚悟

■失敗者は知っている

禁煙、ダイエット、英会話などの外国語、自己啓発の各種メソッド…それらを語った本は世に数多あれど、その本質はあまり語られていない気がする。


私はダイエット失敗者でありその後に成功者となった身なのでそれがよくわかる。なぜ過去の自分は出来なくて、8年前の自分には出来たのか。その違いを自らの体験で身をもって知っている。


また、外国語について言えば現在においても継続しようとして何度も失敗している中国語、これは現在進行形で失敗者である。だが過去には英語、ポルトガル語と成功事例を持っている。そのため、私は成功の本質を見抜いていると言える。


その本質とは、遠くを見る覚悟なのだと思う。


手前はウンザリすることばかり

いざ何かを始めたときに、日々の進捗に目を当てすぎるとガッカリしてウンザリして嫌になる。だから、遠くに目を向けることが大切なのだ。


運動習慣や勉強を始めて1週間で成果など出る訳がない。一週間で体重計に乗ってみたりテストに取り組んでみたりしてもガッカリするだけだ。それでも日々のアクションを愚直に月単位、年単位で継続できる仕掛けが必要なのだ。


いざ何かを始めたら人間誰しも即効性のある効果が欲しくなるものだ。それゆえに、『すぐに上達するナニナニ』などと言う本が存在しているのだろう。


でもそのマインドにはフタをしなければならないのだ。遠くを見つめることで、クレクレの自分を封印し、泰然とコトに取り組む仙人と化す、これこそが成功の本質に他ならないのだ。


山の頂、麓から見るか遠くから見るか

高い山の頂上を麓(ふもと)から眺めたときの目線や首の角度は、かなり急角度に上を向く形になる。けれど100km離れた富士山を眺める首の角度は、自ずと穏やかで無理のないものになっていることだろう。そしてその焦点も、遠くにあるからぼんやりしていることだろう。


遠くの頂を、自然な目線でボンヤリ見つめる。


これこそが継続の極意だと私は考えるのだ。


■頂のすり替え技

本質は上述の如しであるが、ここから少し応用の話を。


私のダイエットは血尿体験とともにある。

これがまた良かった。


と言うのも、医師に血尿対策(実際には腎臓結石対策)として運動+食事制限をせよと言われ、それを愚直にこなしていたら結果的に15kgダイエットに繋がったからだ。


つまり、運動を始めたときには違う頂を見ていたのだ。『健康山』を見てはいたが、『ダイエット山』は見ていなかったのだ。


これは『ボンヤリ眺め』の権化である。ラッキーだった。8ヶ月継続して、気がついたら15kgダイエットに繋がっていた。その間、服がダブダブになったりお腹が明らかにサイズダウンしていたりして実感は先に来た訳だが、体重計に乗ることは敢えて避けた。8ヶ月先を楽しみにしようと思えたのだ。


こうしたすり替え技は、自らのクレクレマインドに蓋をする上で大いに役立つことだろう。


それでも難しい継続

とまあしたり顔でそんな事を書いていても、いまだに中国語は手付かずに等しい惨状を呈している。乗って来ない自分が居る。


ゴルフは遠くの頂を眺め続けて頑張って10年継続したが、大きな成果は得られなかったし、次第にライフスタイルとも合わなくなってきた。だからスパッと辞めた。水泳は30年かかって(笑)独力でなんとか形には出来た。エクセレントではないが、自分がなりたかった形には近いものになった。


人間には向き不向きがあって全部取りは出来ない訳で、捨てるものは捨てたら良い。未練はつきものだが、そこはドライに選択すべきだ。


人生の時間は限られている。効率よく割り当てなければならない。


すぐに成し遂げられるコトなど、存在しないのだという認識も、大切なのだろう。また、なかなか到達しないコトを楽しむ余裕も、大切な要素かもしれない。


あの手この手で移り気な日々の自分をマインドコントロールして、遠くを眺める覚悟を継続出来る、ノリが合う、なりたい自分像に近付ける、そういうコトに、これからも視点をボンヤリと取り組んでいきたいものだ。

2021年10月14日木曜日

さといものナントカ煮

責任感とは何か、11歳の頃、恩師に教えていただいた話である。

小学校の頃、私は給食が楽しみで仕方のない子供だった。下手したら朝登校する前から、ずっと給食のことばかり考えている子供だった。

そしてそれが高じて、5年生のある日自ら思い立ち、毎朝やるホームルームの中で、教室に掲示してある献立表の中から当日のメニューをみんなの前で読み上げるという『今日の献立』なるコーナーをやりたいと担任に申請し、承認をもらったのだった。

なんのことはない、日直さんが司会をする会のおわりくらいに前に出て行って、その日のメニューを読み上げ、『◯◯は実に1ヶ月ぶりの登場です』とか『なおこのメニューは先生も好きだと聞いております』とかなんとか付け加えておしまい、ただそれだけのことである。

日替わりの日直とは違い、毎日のレギュラー枠を獲得する話だ。もともと目立ちたがり屋だったというのと、朝からメシのこと考えてみんなで景気つけようぜ的な発想だった様に、当時のことを記憶している。いずれにせよ、毎朝みんなの前に立って気の利いた(少なくとも自分ではそう思っていた)コメントが出来るというのは、この上ない喜びであり、毎日意気揚々とネタを考えつつ学校に通っていた。『茄子は今年豊作ですからね、嫌いでもしっかり食べなくちゃいけませんね』なんて言うコメントも確かわりとウケた様に、記憶している。

コーナーも無事に立ち上がり、巡航モードになりつつあった、たしか2ヶ月目とかそのくらいの出来事だったと思う。ある日、当日の献立に私が読めない漢字があることに気が付いたが、発表の際にそのまま『・・・と、さといものナントカ煮です』などとごまかしを打ったのだった。

そこに烈火の如く『バカモン!』のいかづちを食らわせたのが当時担任で翌年6年生も見てくれることになる吉田勝俊先生だった。曰く、『自分で作った仕事、責任を持ってちゃんとやらないでどうする!下調べしないでことに臨むとは何事だ』とのことで、そんな責任感の無いヤツにコーナーをやらす訳にはいかん!と私はその場でコーナーを剥奪されたのだった。

これが人生で初めて責任感というものについて教えて頂いたタイミングであった。なるほど、仕事とはそういうものか、と深く感じ入り、私は調子に乗って毎朝喋っていたコーナーを剥奪された恥ずかしさと反省とがないまぜとなった涙を、すごすごと戻った席でひとり流したのであった。

今日ふとこの思い出が蘇った様に、この吉田勝俊先生の教えは、これまでの人生の様々なタイミングで何度も蘇って来た。その都度、吉田先生と過ごした2年間に頂いた他の多くのご示唆と共に、心の中で風呂敷に包み直して、改めて大切にしまい直すのだった。

2021年10月11日月曜日

人生初のバイクを買おう!からの二輪免許取得の話

■移動手段の確保

少年野球のあれこれについては前回書いた。

何はともあれ、ムスコ氏は楽しく毎週チームの練習に通っている。


ところがやや遠方のチームを選んだために、送迎の足が必要である。

我々のチームには決まった練習場が無い(多くの新興少年野球チームには固定の練習場は無い。逆に伝統のあるチームには代々地域のどこどこグランドを優先的に使える様になっているといった関係性が構築されていたりする)為、毎週土日祝午前午後、あちこちに移動する必要がある。ほぼ毎週、なんらかの試合が組まれたりするので、相手チームの本拠地まで足を伸ばしたりする必要性も出て来る。


家には妻も娘もいるので、車を持ち出して練習の時間帯駐車しておくと、残された家族が不便する。

かといって妻に私と息子をポトリと落としてもらうにしても、終わる時間で迎えに来てもらわねばならず、結局家族になんらかの不自由を強いる形となる。


つまり毎度、片道10〜20kmほどの道のりを移動する必要があり、車だと不便で不経済。同じチームのパパさん達はバイク二人乗りで送迎している。私もその利便性を手に入れたく、よし!バイクを買おう!と思い立ったのである。


■バイクの免許

まずは免許である。

今まで全く関心を持ったことのなかった二輪の免許。


調べてみると、二人乗りが出来る最小規模のバイクとは、125ccを指すのだという。

原付二種とも呼ばれるカテゴリーの様だ。

(四輪の普通自動車免許で乗れる原付は、50ccまで。この制限速度は30km/hで、二人乗りはできない。)


私のケースの場合、必要となる免許は、『小型限定普通二輪免許』である。

四輪の普通自動車免許を持っている人は、試験場へ行き一発試験に臨むか、教習所で実技のみのコースを受講するか、の選択肢があるのだという。一発試験は求められる技能の難易度が高く、私の様なバイク素人のケースなら、教習所がベターということになる様だ。


地元の自動車学校の門をたたき、早速入学金87,000円程度を持って登録に向かう。

ここは妻が15年前に自動車免許を取得した教習所だったので、なんと家族紹介割引が適用となった(▲6,000円!)。


短縮コースだと5時間程度で済むが割増料金を支払う必要があり、かつ今は混んでいるからたいして早く終らない、とのこと。

なので結論として、8時間受講の通常コースとした。息子と二人乗りするのはスクーターだけの想定なので、オートマ(AT)限定にした。なお、8時間とは実技だけで、自動車免許がある人は、学科が免除となるということでこれは嬉しい。


■コロナ x 自動車学校

受付の方から私の受講動機を聞かれそのまま説明したら、『子供さんの送り迎えとは、珍しい理由ですね』とのことらしい。ほとんどが通勤に使うといった理由なのだそうで、そのまま少し雑談となった。目下コロナ禍において教習所は空前の二輪ブームなのだそうで。新たにパーソナルな通勤手段を手に入れたい向きが押し寄せているということと、「リモート勤務で時間が出来た」からなのだとのこと。


リモート勤務で時間が云々というのは、通勤にかける往復の移動時間が無くなったということを意味しているのだとは思うが、ひょっとするとそうじゃ無い人もいるのかもしれないなぁなどと勘ぐってしまったりした。いずれにせよ、若者がクルマ離れしていると言われる状況で自動車学校が客を取り戻したというのは良い話だし、なんだか現代の風吹けば桶屋が儲かる的なヤツだと感じ入ったりした。


■ヘルメット購入

1時間目は適性検査、2時間目から実技なので、それまでにヘルメットを買って持ってきてくださいと。


はて、二輪のヘルメット。私の場合、人生で初のアイテムである。いったいどこで買うんだ?から始まる訳である。ネットでも販売は多いが、何しろ試着も出来ないので初回購入には不適である。イエローハットの二輪版である2りんかんというお店があるのを発見し、ネットある程度下調べした上で、安すぎず高すぎない名の知れた国産メーカーのものを購入した。


細かい話だが、教習所には教習期間中を通して1,000円で借りられるロッカーがあり、そこにヘルメットを置いておける仕組みがあって、これは大いに助かった。


■教習はじまる

周りの受講生は、学生ばかりということはなく、30代〜40代と思しき男性も割と多かった。

四輪の受講生はほぼ学生さんばかりという印象だったが、二輪についてはそうではなく、なるほど受付情報通りでさもありなんといった感じの年齢層であった。


受講生2名に対し、同じバイクに乗った教官が一人つく。インカムで指示をもらいながら、坂道、クランク、T字、急制動、障害物、一本橋などの課題をクリアしていくというものである。実際に乗る教習車は、HONDAリード125という定番とも言うべき車種が採用されていた。これが人生初めての125cc乗車経験だったのだが、新しい車両で加速も良く、毎時間とても楽しい体験だった。この教習、私としては自動車の運転で実際に使う交通法規に精通していることもあって、心理的な負担は低かった。


ただ、混雑しているという前評判通り、次のコマの予約が2週間後からしか空いていませんなどという状況になっており、一コマも落とさずに進んだわけなのだが、最終的に卒業したのは7月アタマに入所してから2ヶ月後のことだった。


■卒検

8時間目は卒検ということで、これまで教習で習ってきた技能を披露する場となる。

一人ずつ後ろに教官がピッタリくっついて、インカムでコースを指示していく形をとる。

大型、中型、小型、それぞれAT限定含めて16人ほど集められ、ゼッケンナンバーごとに一人ずつ試験をこなしていく。


ゼッケン7番だった私は、4ターン目だったということで大いに緊張した。

44歳にもなって、試験会場でドキドキするなんてことがあるんだと改めて新鮮な思いを持った。

緊張している間、『いやいやいや、これだけ仕事でもタフな状況をくぐり抜けて来た自分、緊張なんてするわけないじゃない、そもそもイージーな試験なんだから。小型だよ、しかもAT限定だから』『緊張するのは失敗をイメージするからだ。成功だけイメージするのだ』などと自己暗示にかけても全く緊張は消えず、我ながら情けない小心者だと再認識した。


結果発表は一斉で、合格者だけ呼ばれ、部屋へと誘導される。不合格者は教室に入れず、再度予約をすることになるのだろう。

印象として、1/3くらいは不合格だったと思われる。割と厳しい試験結果だ。


■運転免許試験場

教習所の卒業証書、卒業時に併せてもらった各種書類を持って平日の運転免許試験場へと向かう。

08:30開始とあるが、こういうものはだいたいその前から開場するものだと08:00を目指して二俣川へ。

案の定、08:00過ぎには開いていた。証紙購入、写真撮影、キオスク端末での暗証番号入力、ちらほらと見かける外国人の方は都度不安げに質問するが、係官の応対は冷たい。日本語が母語じゃない人に対して、そんなに早口な回答はないだろう・・・などと気持ちがざらついたりしながらも、11:00前に晴れて交付を受けた。

2021年9月30日、これが私の小型自動二輪免許の交付日だ。


■タンデム解禁まで1年

バイクの二人乗りを、タンデム走行と言う。

ここで私の様な取り組みをしている人間が理解しなければならない重要なルールがある。


二輪免許の交付を受けてから1年間は、タンデム禁止と道交法で決まっているのだ。

つまりこの息子とのタンデム少年野球プロジェクト、実に1年がかりなのだ。


いまは3年生の秋。

タンデム送迎が可能になるのは、4年生の秋。

そこからタンデムで色々と出来るのは、引退までの丸2年ちょっとという計算になる。


まぁ、それだけ出来れば十分楽しめるだろう。

父親との想い出の一部に、タンデムバイクでいろんなところへいったなぁというページが加われば、それだけで嬉しい。多感な時期に本人も楽しいと思えるであろうバイク体験だから、強く残ってくれたら幸いだ。


1年後を見越したバイクの購入計画については、次の回に書こうと思う。

2021年10月8日金曜日

少年野球について感じる違和感

野球狂想曲

小三の息子が野球を始めて半年になる。

3ヶ月ほど最初のチームに所属し退団、1ヶ月ほどチーム浪人生活をする中で、様々なチームを広く見学し、その上で選んだチームに入り2ヶ月が経過した。


今のチームはPCGPlayers Centered Games)という新たな概念に沿って運営されているチームなので、違和感は少ない。


だがサッカー部出身の私がここ半年で覗いてみた野球業界のあれこれは、相当に違和感の連続だった。


これは自らが所属したチームからの経験則ではなく、試合の対戦相手を通してみたり、見学を通してみたりして、数多くのチーム(そこにいるオトナ達)を観察した上で得た感想である。


これら違和感を感じたというのは、異種スポーツ出身という背景のみならず、私の仕事がネットベンチャーであり、日々updateすることを生まれながらに宿命付けられた存在であるというのも、ひょっとすると関係しているのかもしれない。


いずれにせよ息子はいまとても楽しく野球に取り組んでいるので良い状況なのだけれど、それはそれとして私が感じた違和感をここにシェアしたいと思うのだ。


野球の魅力

というのも、その昔自分の幼少期、サッカーを本格的に始める前、近所の空き地や路上でプラスチックバットとゴムボールで友人たちと三角ベースみたいなことをして飽きもせずひたすら遊んだ記憶があって、今回自分の息子も興味を持ったように、野球は本来、子供たちを惹きつける要素をたくさん持つスポーツであったはずである。


だがおよそ35年の時を経た私の目に映った野球業界は、驚くべきガラパゴス文化のカタマリであったというのが、なんだかとても残念に思うからである。


違和感を構成するエピソード・サッカー経験者から見た野球あるある(個人的見解)


・野球をする子供達は、常にガミガミ何かをオトナ達に怒られている(サッカーも厳しいチームは厳しいが、少なくとも箸の上げ下ろしにガミガミ的なノリは無い)


・野球をする子供達は、他のスポーツに比べて褒められることが極端に少ない(ダメ出しをされる件数が褒められる件数を極端に凌駕する、と言えば的確だろうか)


・野球は一個一個プレイが止まるので、その都度お説教の様な時間が出来てしまう(サッカーは流れが大事なので、ピタリと止めることはそうそうない)


・野球には、覚えることやしきたりがたくさんある(それ故に子供たちの中にも年功序列的ヒエラルキーが形成されがち)


・例えば、試合中のバット引きやボールボーイといった丁稚作業を経て初めて一人前といった認識があったりする


・野球は頭でするものだというオトナから見ると、ミスをする子供は、ボーッとしているからつまり頭を使っていないから失敗するのだと分析される(子供は失敗するもの、という考え方はどこか遠くにうっちゃられている)


・野球経験者は、『キッチリ』していることを求める。それ故に、『キッチリ』していない子供をひどく叱る(それが低学年カテゴリであっても)


・整列の時につま先を揃えて並ばなければならない、ヘルメット 、バット、グローブは綺麗に並べなければならない(その方が気持ちが良いだろう?強いチームはそういう事が出来ているのだゾと言う)


・野球経験者は、そつのないプレイを尊ぶ風潮があり、そつのない『ちゃんと』した『良い子』のプレイヤーが褒められる(そうするとオトナの目をビクビクと常に意識して器用なだけの子供が量産されてしまう気がするのだが)


・オトナはオトナの視点で技術指導をする為、積み上げが効く世界観前提でロジックを組み立ててしまう(子供の時なんて、昨日出来たことが明日突然出来なくなるなんてざらのはずなのに。積み上がっていないとなじられる)


・オトナはかつて自分も子供だったことを忘れてしまう(嘆き節やボヤキ節が中心となり、ネガティブな言論が大勢を占めやすい。何故なら子供には出来ないことが多いから。かつて自分もそうだったはずなのに)


・自分の息子に対して、異常に熱くなり、暴言を吐くパパコーチが居て、それを周囲は黙認する


・チームによっては監督コーチも罵声指導をしたり、今のはなんでだ?と20回なじるなどの追い詰めアプローチを取ることが黙認されていたりする(低学年に対しても)


・子供たちが『楽しく』野球に興ずると、『ゆるむ』から、『怪我をするモトだ』ということなのであるからして、『引き締めて』やらねばならないという言説が定着している


・『どうせやるなら勝たないと意味がない』という言説が定着しているチームが少なからず存在している(果たして本当にそうなのだろうか)


・軍隊的な規律を持ったキビキビとした行動を取ることが、『爽やかで気持ちの良い野球青年』像であり、細かい点にまで気の配れること、それが上手い野球に繋がり、そういう意識を持ったメンバーが揃うと強いチームが出来上がる、という言説が定着している


・朝、犬の散歩で歩いていると、近所のグランドで自分の息子と思しき4年生くらいの少年に千本ノックみたいなものを浴びせ、肉体的にしごきながら精神的にも罵倒して人格否定している親と出くわすことがある。そして私はその様な親子を少なくとも2組は知っている。その『練習』が終わって帰るシーンにも遭遇したことがあるが、親はさっさと一人で帰り、後片付けは全部息子にやらせる。巨人の星的なイメージを背負ってのことなのだろうか。その光景を見るたびに、毎度涙が出そうになる。


・試合の時、母親がベンチの首脳陣にお茶を出す文化が残っていたりする


・さすがに今は無いとのことだが、監督の試合弁当を選手の母親が当番回り持ちで作っていたチームもあったとかなんとか(これは噂だけ聞いた。都市伝説かもしれないw


・・・などと並べてみたが、みなさんにはどう映るだろうか。


野球素人が何か言っとるわ、かもしれない。

そういう甘いことを言っているから、強くなれない、というのもあるのだろうか。


まぁ、それでも尚私が言いたいのは、上記の事柄に触れるたびに、強い違和感とストレスを感じました、そして業界素人の私にはそれらを表明したり共有するのはとても難しい事でした、ということである。


野球で対峙するもの

ここでふとある考えが浮上した。

サッカーと違って、野球には相手以外に対峙するものがあるから、こういう空気が出来上がったのでは無いかという仮説だ。

それは『時間』だ。


『キッチリ』とか『ちゃんと』しなければならないのは、このスポーツは時間を相手にして戦うものでもあるからなのではないか、と。


サッカーなら相手を崩して相手より多くのゴールを挙げれば良いが、野球は攻撃側なら打撃+走塁というワンシーンの中でやらなければならないことが存在していて、守備側なら走者が塁に到達する前に捕球して送球して受け手が捕球して触塁しなければならないと言う様に。


サッカーが概して個性に対して大らかなのは、そういう違いがあるからなのだろうか。


サッカーで指導が厳しくなるとしたら、せいぜい相手に対するファイトの部分とか、体力トレーニングに対する自らへの向き合い方、といった要素になって来る。


だとしたら、野球チームの指導がなんだか『世知辛く』なってみたり、時として指導が人格にまで及び兼ねないというのは仕方のないこと、と言う風になってしまうのだろうか。


だとしたら、子供が野球から離れてより自由で大らかなスポーツを選んでいくと言うのは避けられない流れということになってしまうのだろうか。。。


チーム方針

結論として、親としては、数あるチームの中から、子供の個性に合ったチーム選びをすることが肝要だということになろう。


だけどこの結論をもって、『チームの運営方針はそれぞれだから、個々のチームの方針に異を唱えるつもりはない』という風には終わりたく無い。


今の時代に上記の様なムードで運営されているチームが存在するのは、野球人口の減少に繋がると考える。


現に、日本の少年野球チーム数は減少の一途を辿っている様子である。


私の様な未経験のオトナが深く入り込んで意見するにはハードルが高く、外部の声や血が、入りにくい業界でもある。


自己変革や改革が出来にくいのはそうした外様の風が吹かない業界特性も手伝っているところもあるだろう。


いずれにせよ、私はこの違和感を背負ったまま、いま小三の息子がこれから卒業までの3年半ほどをこの野球業界で過ごすことになる。

現在息子が野球を楽しんでいるのは大変ありがたいことだ。


なので、これからも野球業界のあるあるを眺めつつ、問題意識を抱えながら、息子の成長に寄り添って行けたらと考えている次第だ。


2021年10月1日金曜日

飲食店のサービスマンとして思うこと

今日もランチタイム、『パサドール』というお肉を提供する役目を担って働いた。副業の飲食店バイトである。

■『パサドール』の仕事

来店予約の時間と人数から逆算して必要分量の生のお肉をサーベルに刺し、岩塩を振り、シュハスケイロという専用のグリルにあらかじめ投入しておく。

お客様が来店し、サラダバーを取り、着席し、ドリンクが提供され、テーブルの上のyes/noのチップがグリーンになり、肉皿がセットされたら我々パサドールの出番である。

焼き加減を目視、良き頃合いにてグリルから出し、専用のパレットもしくはまな板に乗せ、よく研いだナイフとトングを装備し、テーブルへと出かけるのだ。そしてすぐに戻っては次のお肉を投入し、提供の進み具合を見ながら切れ間なく食べ放題のお肉をサーブし続ける、それがパサドールの仕事である。

■パサドールが提供するサービスとは

グリルから提供する品目は15種類ある。それらを提供する順序は、お店のノウハウに基づいて設計されている。複数テーブルがあってそれぞれの来店時間も違えばチップがnoになっていることもあるので、完全に順番通りとも行かず、臨機応変な対応が必要となる。

常連さんなどはお気に入りの部位があったりするし、方々から都度リクエストが入ったりする。いずれにせよ、我々の仕事は、ベストな焼き上がり状態のお肉を求められているタイミングで各テーブルにお届けすること、これにつきる。

社会人となって20年単位の日々が過ぎると、いつしか仕事の接待やプライベートなどで高級店での飲食シーンは増えていて、客としての体験ばかりが嵩んでいた。それがいざサービス提供側に回るとその視点は逆転することになる。

ことブラジルのシュハスコレストランとなると、自分自身ブラジル全土のさまざまなチェーンに行き倒したということもあり、またその場でツアコンとして日本人顧客にシュハスコの魅力を代弁していた経験も伴うとあって、いざ提供する側となると、語りたいことはこんこんと湧き出してくるのである。

なのでお店に入る時には、顧客としての経験とブラジル時代の経験を元に、自分なりにいくつかの工夫をしている。

■アイコンタクト

まず、挨拶の際のお客様とのアイコンタクトである。しっかりとアイコンタクトしてくれるお客様は、店員とのある程度の会話を許容する。逆に最初のアイコンタクトが軽めであれば、接待などの会話を重視したい意思の表れでありこちらからの介入は最低限にすべきだ。仕事仲間か、接待か、プライベートか、その会食の主旨によって、サービスの濃淡は変えるべきだ。

■一言でわかるアイテム説明

次に、アイテムを運んでテーブルに入るたびに発生する商品説明である。それぞれの商品ごとに、一言で伝わるキラーフレーズを幾つか自分で開発して用意している。例えば看板商品ピッカーニャなら「いよいよ一番人気が来ました」やノリが許されるテーブルなら「キング・オブ・シュハスコ来ました」だったり、カイノミなら「脂少なめ肉汁タップリ」などなど。

長い説明は聞いてもらえないし、真面目な説明もつまらない。これはどこか営業シーンにおける質疑応答への返答と似ていて、とにかく喋り出し一発目でキャッチーに仕留めなければならないのであって、企業の役員と偶然乗り合わせましたという『エレベーター・ピッチ』になぞらえても良いだろうか。

お客様が逆にもっと知りたいみたいになって、質問してくれたら少し真面目になって情報をインプットするチャンスだ。

「キング・オブ・シュハスコ来ました」

「え?なんですかソレ」

「ピッカーニャ・腰からお尻にかけての柔かい部位で、日本ではイチボと呼ばれる希少部位です。ブラジルではピッカーニャの質がそのシュハスコレストランの価値を決めるという程のシグニチャー・ミートなのです。だからキングなのです」

「へー w」

「ちなみにこのイチボ、当店ではこの岩塩だけで焼いたものと、ガーリック味・ブラックペッパー味の3種類ご用意があり、余すところなく提供しております。どうぞお楽しみください」

などとテーブルを後にする。

このやりとり、たいした時間はかからないが、会話のキャッチボールに折り込むことで、膨大な情報量を自然にインプット出来る。

このテーブル、次に違う種類の肉を持っていけば、たいていの場合において、「次のこの肉はどんな肉なんですか?」とウンチクを聞かれることになる。

その様にして聞かれたら、第二弾を恭しく開陳するのである。もし聞かれなければ、仲間内の話が盛り上がっているか、私のことを嫌だと思ったかのどちらかと判じて、その場をサクッと離れるw

もし自分が大学生アルバイトだったら、こうは行かなかっただろうということばかりだ。実際に共に働くパサドール仲間達は、日本の大学生か、本国から派遣されているブラジル人、そしてフリーターの20代の人なんかで構成されている。サービスのバリエーションはそれぞれ違ったほうが良くて、全員が私みたいなことをやったらそれこそくどいと嫌われるだろう。

■ライフタイムバリュー

いま自分は、このお店が大好きで、日々対峙するお客様がお店のファンになってもらいたいと心底願ってサービスをしている。一発勝負でおしまいではなく、ライフタイムバリューを上げることこそが顧客とお店(会社)双方の理想形つまりwin-winな関係に他ならないと信じている。

ブラジルを愛し、ブラジル料理を愛し、いつかブラジルレストランを自分でやりたいから、心からのサービスを一期一会で出し切る、そんな思いでやっている。

またそれと同時に、初対面のお客様と話をするときに、22年間の法人営業のノウハウをフル活用してそのシーンを楽しめている自分がいることも認識している。それらの情熱をフルで駆使してシフトに入る私は、やはり明らかに浮いた存在なのである(笑) 



2021年9月18日土曜日

基本我流、ときどきメソッド

先日、月に一度の水泳に行ってきた。

1kmを25分くらいノンストップで泳ぐことを習慣としている。


ざっくり一月に一度、無性に泳ぎたくなる。

無性にリセットしたくなる、というのが正しいだろうか。


水泳の良いところは、ランニングより純度高く無になれるところだと思う。

そして全身をくまなく使って運動し、関節が伸びる感じがしてとても良いのだ。

つまり心身ともにリセット感があるところが、とても気に入っている。


■水泳の恐怖

子供の頃、私の中で水泳は超がつく苦手科目だった。

小学3年生まで、5mしか泳げなかった。だから水泳の授業が、苦痛で仕方なかった。

水は怖いし、だいたいにおいて授業の日は寒いし、みんなで浴びるあのシャワーは

やけに息苦しいしと。


さすがに5年生になるにあたり、これじゃモテないよなということで一念発起、

町の図書館へ出向いて水泳の本を読み漁り、独学で25m泳ぐべく模索を始めた。


本で座学→町民プールで闇練→別の本で座学→町民プール というのを繰り返しているうちにある事実に辿り着いた。オレは水の中で目を閉じているから怖いのだ、と。


実にバカバカしく、単純な発見だったのだが、これは私の中で人類史で言うところの「火の発見」クラスに大きな出来事であった。


水の中で目を開けるのは痛かったが、怖く苦しく前が見えないよりはるかに良かった。

私は拙いフォームながらも、水の中で目を開けるという原始的な解法を得て、25mを

泳ぐことが出来た。だからといってモテはしなかったが、悪目立ちする様な有様ではなくなっていた。

そしてその後、水中メガネというものの存在に気がつくことになる。。。


■もがいて模索した経験がベースとなること

小学校高学年で、自らブレイクスルーに辿り着いた経験はその後の人生で大きな基盤となった。

世にメソドロジーはたくさんあれど、まずは自分で飛び込んでみて模索して、そうしてから

メソドロジーに頼ってみるのが吉、という感覚が備わったからだ。


傍目にはこれが遠回りに映るかもしれないが、自分にとってはこれが近道だと思う。


ブラジルに4年住んでいる間、ランニングのやりすぎで膝を故障した。

負荷の低い運動を探し、半年だけ水泳教室に通ったことがある。


マリオ先生という元水球ブラジル代表オリンピアンがオーナーですというその教室は、幸にして職場の近くにあった。

しかもそのマリオ直々に教わることが出来るというだけあって、こぢんまりとしたその教室は、サンパウロ中心街区に勤める一般のサラリーマンやOLで賑わっていた。そのマリオ先生に教わって触れたのが、私にとって人生初の水泳メソドロジーであったのだ。


呼吸法、足と手のタイミング、脱力、身体の伸び、どの教えも眼からウロコだった。

その昔小5で読み漁ったハウツー本や、さんざんもがいた時に浮上したクエスチョンマークが、30年経って蘇り、解きほぐされていく、そんな感覚だった。


この時、メソッドが活きる為には、もがき苦しんだ結果としての疑問や不満といった類の累々が、ベースとして蓄積されていなければならないのだと感じたものだ。課題感があればこそ、メソッドが染み込むように活きるという体験をしたのだ。


■習慣としての水泳

さて、今回は貯まったスタンプカードで区民プールが無料で利用できた。

小5の僕からしてみたら、信じられない趣味を持ったことになる。しかも1kmも泳ぐなんて想像だにできないだろう。

これからも自分のゆったりペースで、陸をランニングし、水を泳いで、身体のバランスを保っていきたい。

そして新しいコトに当たる時は、まず我流で取り組んで課題のベースを構築し、そこにメソドロジーを振り掛けて苗を育てたいと考えている。



ふたたび立ち止まる

2018年からギッコンバッタン動き続けてきたポルキロレストラン構想。

今年の6月に、計画を全部白紙にして様子見モードへと移行しました。


その決断に至るまで、遠藤さんとコンビを組成して半年間ほど一緒に走りました。

二人でコンセプトとメニューを磨いて、試作して、幾つかの物件に正式申し込みを入れたが叶わずと

いう状態が続きました。


そうこうしているうちに断続的緊急事態宣言の状況が発生した為にお互いの状況が変わり、

この中途半端な『プロジェクト待ち』のステイタスを維持することが難しくなり、

コンビをいったん解消することになりました。


いろいろな相談に乗って頂いた先輩方、ありがとうございました。

Zoomで意見交換に付き合ってくれた友人達、ありがとうございました。


この構想は、金融機関にNOを突きつけられただけでなく、モードチェンジして狙いを定めた狭小物件のオーナーからも採用されない、客観視すると総合的に魅力の低いプロジェクトであったというのは大きな発見でありました。


私としては本業に勤しみつつ、副業アルバイトは求められたら応じる形で継続し、アンテナと感覚は維持しつつ雌伏の時を過ごします。環境の変化と潮目の流れにしばし身を委ね、なるようになるさ的に構えてみようと考えています。









(わが店にこのロゴを掲げる日を夢見て)