季節には匂いがあって、その匂いが昔の記憶を連れてくる。
その匂いは、変わったばかり季節の急激な温度変化と、そのシーズンに旬を迎えた植物が醸し出すいぶき、それらが合わさったものではないかと思う。
しかし鼻で感じる匂いにさらに記憶がプラスされることで、それは立体的なフラッシュバックになる。
かつてその匂いを嗅いでいたときに自分が感じていた寂しさ、不安、高揚。そうしたひとつひとつの思い出が、季節の匂いで一斉にスイッチが入って私を襲うのだ。毎年繰り返し何度も。
記憶は、心情的にナイーヴだった小・中学生の時代の事象がベースとなっている。
夏の終わりの気温の低下には胸が締め付けられるような寂しさを覚える。
とりわけむせかえすような湿度の8月末、夕方起こる激しい夕立ちには、残り少ない夏休みを強引に味わおうと友達と自転車で強行した市民プールの記憶がセットだ。天気が悪く気温が下がったときのプールは何故だかわからないけれど寂寥感を強烈に伴う。きっと心臓がシュリンクする物理的な動きが気持ちに作用しているに違いない。疲れた体で雨宿り、売店で飲む瓶入りコーヒー牛乳の味も追いかけてくる。宿題をまだ残している焦燥感には、フタをしている。
秋は運動会の清涼な空のイメージがあるだけで、取り立てて大きな感傷は訪れない。
自分が冬生まれということもあって、より寒い冬の方が心情を動かし易いということだろうか。
冬、鼻をツンと刺す寒さが匂いを麻痺させるけれど、そのこと自体が匂いに変わる。
乾燥するから唇が荒れ、当時リップクリームの存在を知らず常に嘗めるから口の周りが赤くなって友人からバカにされた。
日没が早いので部活は早く終わる。帰宅も早いが家には誰も居らず、2匹の犬と散歩をする時間が長くなる。吐く息の白い絵と心臓破りの坂、小学校名物行事の朝マラソンが辛いけれど、ためしに一度自分のタガを外して限界を超えて速く走ってみたら順位が劇的に上がった成功体験がプラスに作用する。少し頑張ればクリスマスと年末年始。年賀状は面倒だけど、大手を振って夜更かし出来る唯一の季節、お年玉も高校サッカーも楽しみだけど、中学生になると受験シーズンが重なって、都合行って来いの季節だ。
春、やっと冬の寒さが和らいだと思ったら次の季節への心の準備が整う前に桜は咲き、やがて散ってしまう為、全体的にそわそわした印象。それまで警戒心を抱かせるような厳しい寒さを持っていた外界が、手のひらを返したようにうららかな日差しを投げ込んでくるこの季節、不安が先行して落ち着かない。
クラス替えの発表に臨む緊張感は、受験の合格発表の緊張感を何故か凌駕していたように思う。新しい教科書とノートは嬉しいけれど、部活も学年が上がり内容も一段とハードになるのが嫌で仕方がない。
そんな子供の様なことを、日本では毎年繰り返していた。
大学時代にはヨットというスポーツを通して年間130日海に出て、季節を肌で感じる暮らしをしていたので匂いで感情が大いに起伏した。三十歳を超えても、家を出た瞬間やオフィスを出た瞬間に入ってくる匂いに、条件反射で胸を動かされていた。
ブラジルではめったにそれを感じないけれど、不思議なもので日本のそれと似た気温や花の匂いを偶然キャッチすると、むくむくと記憶が立体化されて立ち上って来るから面白い。いまだにあのころの感傷が頻繁に甦ることで、人生の初心に立ち返ることが出来る気もする。



