ブラジルはサンパウロ郊外、高速道路の路肩、何台もの車が自分の脇を時速100km超で通り過ぎていく夕方5時半。視界のはじにはハザードの着いた自分の車、中には家族が3人でパニック状態。唯一車外に出ている自分は、身振りで助けを求めるのと、緊急連絡をしなければという二つの動作を試みるも、気が動転している状況ではまったくもって思うにまかせず、手も震え、どちらも中途半端にしか出来ない。そうこうしているうちに状況は刻一刻と悪化していく。。。
観念した、というのはああいう気持ちを言うのだろう。2013年12月29日は、恐らく人生で最も多く人に助けを求めた日であったはずで、生涯忘れられぬ日になることだろう。ちょうど満一歳になった息子が、行楽帰りの帰りの車内で突然身体を硬直させて気を失ったことに関連した一連の出来事である。
~熱性けいれん~
後で調べれば、それは『熱性けいれん』という1~6歳の幼児の7~9%程度によく見られる症状とのことで、数分放置しておけば痙攣はおさまるし、「単純型」であれば一度しか起こらないことが殆どというものであるらしかったのだが、予備知識のない我々にはまさに青天の霹靂で、全行程450kmのロングドライブのラスト70kmにさしかかった一家を奈落の底に突き落とすに十分なインパクトを持っていた。
ハンドルは小生、助手席に妻、後部座席運転手側に1歳の息子、後部助手席側に4歳の娘がそれぞれチャイルドシートに座ると言う構図。走行中、突然強めに泣き出した息子の様子を対角線にさりげなく振り返った妻が「死んじゃう、死んじゃう、車を停めて!!!」と絶叫した瞬間、バックミラー越しには思い出すのも恐ろしい白目をむいて気絶する寸前の息子の姿。車を路肩に寄せ、冷静に止めようとするも、あまりの動転にギアをパーキングに入れるのが早すぎ、衝突したかと間違えるほどガクンと急停車になった。息子はチアノーゼと言うのだろう、唇は紫に、顔色が蒼白を通り越して異様な色になっていた。意識が無い。
車外に飛び出して携帯で電話をしながらとにかく地元の人に助けを求める為に身振りで止まってくれとアピールするも、緊急連絡は繋がらず。もとより速度制限120kmの現場では、誰も止まるはずがない。これはダメだと思い、気を失う子供を絶望的な気持ちで片手で抱き上げて車外に出し、赤ちゃんが大変なのだと見せながらアピールを開始する。繰り返しになるがこのけいれんは重大なものではなく、楽な体勢にして様子を見るのが一番良く、大声で覚醒を促したりゆさぶったりしたら逆に良くないというのは後で知ることになる為、本人達はまさにその逆を行っていた。この世の終わりと思っている。妻も一緒にジェスチャーを始めた。
(良く考えたら脈拍や呼吸も確認しなかったし、心肺蘇生なども全く頭に浮かばなかった。恥ずかしながら全くもって愚かだったと今では反省している)
そんなことを始めて2分もたたないくらいだろうか、なんと救急車が視界に飛び込んできた。赤子を抱えて泣き叫ぶアジア人夫婦の形相をかろうじてみとめてくれたか、急減速し100mほど先に止まってくれたではないか。偶然にも空の救急車が、現場を通りかかったのであった。救急隊員に息子を手渡した時には彼の意識はうっすら回復しており、身体の硬直も解けていたように見えた。
救急車内では酸素が補給され、早速色んな数値を測り、異常がないことを確認し、本部と交信し、一番近い救急受け入れ病院を探してくれ誘導してくれた。次に高速道路料金所脇の救急隊詰所へとバトンタッチされ、2台目の救急車に乗り換えて私は4歳の娘とマイカーで追跡し、それまで名前しか聞いたことのなかった街・Indaiatubaの一般病院へと到着する。サンパウロへの帰路は増したことになるが、今思うと彼ら救急隊の対応・連係プレーは見事なものであって、時間的なロスは非常に少なかった。これは小生の数少ないブラジルでの経験から思うに、奇跡的な出来事と今では思わざるを得ない。
名の知らぬ病院に到着後、血液検査と尿検査の準備を進めていると突然息子の様子が急変し、また2回目の発作が起こる。すぐにドクターの手に渡り、そのまま奪い去られるように救急処置室へ。そこから先は親族も入れぬということでシャットアウト。その状況に妻は泣き崩れ、異国の知らぬ街の病院で見ず知らずの医師に何をされるかわからない不安で相当な混乱状態に。傍らで自分にできることは妻と4歳の娘をただ抱きしめて立ち尽くすだけという無力感。。。結局2回目の発作も終わった様で、鳴き声が聞こえだした。
ここでもまだネットが満足に繋がらず、熱性けいれんの正しい情報が入っていない為、その病院で6時間経過した後に様々な検査を終え、結果を説明されてさあサンパウロに帰った方がいいよと言われても怖くてハイそうですかと帰れない。道中何があるかわからないのだ。間違ってももうあの白目は見たくない。再発しないようにしてから退院させてくれと交渉するも、うまく伝わらない。そこで、会社同僚の女性とそのダンナさんに、電話を通じてブラジル人医師とのコミュニケーションをヘルプしてもらった。またそれとは別に、こちら在住で医師免許を持つ実業家の日系ブラジル人にアドバイスを求め、それぞれ言葉の面やセカンドオピニオン的なアドバイスで大いに助けてもらった。
この日は日中から数えて、ブラジルの人に何度助けを求めたことか。
思い起こせば実はこの旅行中、往路行程の最後にタイヤがパンクした。親切なホストの助けを借りて良き修理工場を案内してもらい、安いコストで元通りの状態に復帰したという出来事があったばかりである。つまりこの数日間、人に助けてもらいっぱなしだったのだ。我ら家族はなんとはかない存在かと思い知らされた。地球の反対側で1歳の息子に頓死されるかもしれなかった(※実はそんな大げさなものではなかったと今なら頭でわかるが、再発した時に冷静でいられるかと言うのはまた別の問題だと思う)あの瞬間、色んなことがらが頭を去来して、なぜか無常観に包まれていたのはつい先ほどの話だ。
大晦日の今日、サンパウロの大病院に移り検査を続けている。血液、尿、脳波、髄膜液、肺レントゲン、いずれも問題なしとなったが、息子の発熱は継続し、経過を見たいという医師の意向で入院へと移行した。げっそり痩せてぐったりした様子の息子は見るだけで涙気の毒だし、気丈に振る舞う姉も健気で涙が出てくる。現在、病室でこれを書いている。大晦日に参加を予定していたサンパウロ市民マラソン『Sao Sirvestre』はキャンセルしたし、家でのんびり年越しをするかというささやかな願いもかなえられないこととなったが、いまは息子が生きていること、家族そろって同じ部屋で年を越せること、我々を助けてくれたブラジルの人々に感謝する気持ち、でいっぱいである。
『熱性けいれん』については、小さな子供を持つ親であれば必ず備えておかねばならぬ知識であるように思うが、我々には知識が皆無だった。教えられていたのだが通り過ぎてしまっていたのだろうか。一般的にはみなさんの理解はどうなのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%80%A7%E3%81%91%E3%81%84%E3%82%8C%E3%82%93
小さな子供を持つ友人たちにはこの経験を伝え、心の準備が出来る様にアドバイスして行きたいものである。
観念した、というのはああいう気持ちを言うのだろう。2013年12月29日は、恐らく人生で最も多く人に助けを求めた日であったはずで、生涯忘れられぬ日になることだろう。ちょうど満一歳になった息子が、行楽帰りの帰りの車内で突然身体を硬直させて気を失ったことに関連した一連の出来事である。
~熱性けいれん~
後で調べれば、それは『熱性けいれん』という1~6歳の幼児の7~9%程度によく見られる症状とのことで、数分放置しておけば痙攣はおさまるし、「単純型」であれば一度しか起こらないことが殆どというものであるらしかったのだが、予備知識のない我々にはまさに青天の霹靂で、全行程450kmのロングドライブのラスト70kmにさしかかった一家を奈落の底に突き落とすに十分なインパクトを持っていた。
ハンドルは小生、助手席に妻、後部座席運転手側に1歳の息子、後部助手席側に4歳の娘がそれぞれチャイルドシートに座ると言う構図。走行中、突然強めに泣き出した息子の様子を対角線にさりげなく振り返った妻が「死んじゃう、死んじゃう、車を停めて!!!」と絶叫した瞬間、バックミラー越しには思い出すのも恐ろしい白目をむいて気絶する寸前の息子の姿。車を路肩に寄せ、冷静に止めようとするも、あまりの動転にギアをパーキングに入れるのが早すぎ、衝突したかと間違えるほどガクンと急停車になった。息子はチアノーゼと言うのだろう、唇は紫に、顔色が蒼白を通り越して異様な色になっていた。意識が無い。
車外に飛び出して携帯で電話をしながらとにかく地元の人に助けを求める為に身振りで止まってくれとアピールするも、緊急連絡は繋がらず。もとより速度制限120kmの現場では、誰も止まるはずがない。これはダメだと思い、気を失う子供を絶望的な気持ちで片手で抱き上げて車外に出し、赤ちゃんが大変なのだと見せながらアピールを開始する。繰り返しになるがこのけいれんは重大なものではなく、楽な体勢にして様子を見るのが一番良く、大声で覚醒を促したりゆさぶったりしたら逆に良くないというのは後で知ることになる為、本人達はまさにその逆を行っていた。この世の終わりと思っている。妻も一緒にジェスチャーを始めた。
(良く考えたら脈拍や呼吸も確認しなかったし、心肺蘇生なども全く頭に浮かばなかった。恥ずかしながら全くもって愚かだったと今では反省している)
そんなことを始めて2分もたたないくらいだろうか、なんと救急車が視界に飛び込んできた。赤子を抱えて泣き叫ぶアジア人夫婦の形相をかろうじてみとめてくれたか、急減速し100mほど先に止まってくれたではないか。偶然にも空の救急車が、現場を通りかかったのであった。救急隊員に息子を手渡した時には彼の意識はうっすら回復しており、身体の硬直も解けていたように見えた。
救急車内では酸素が補給され、早速色んな数値を測り、異常がないことを確認し、本部と交信し、一番近い救急受け入れ病院を探してくれ誘導してくれた。次に高速道路料金所脇の救急隊詰所へとバトンタッチされ、2台目の救急車に乗り換えて私は4歳の娘とマイカーで追跡し、それまで名前しか聞いたことのなかった街・Indaiatubaの一般病院へと到着する。サンパウロへの帰路は増したことになるが、今思うと彼ら救急隊の対応・連係プレーは見事なものであって、時間的なロスは非常に少なかった。これは小生の数少ないブラジルでの経験から思うに、奇跡的な出来事と今では思わざるを得ない。
名の知らぬ病院に到着後、血液検査と尿検査の準備を進めていると突然息子の様子が急変し、また2回目の発作が起こる。すぐにドクターの手に渡り、そのまま奪い去られるように救急処置室へ。そこから先は親族も入れぬということでシャットアウト。その状況に妻は泣き崩れ、異国の知らぬ街の病院で見ず知らずの医師に何をされるかわからない不安で相当な混乱状態に。傍らで自分にできることは妻と4歳の娘をただ抱きしめて立ち尽くすだけという無力感。。。結局2回目の発作も終わった様で、鳴き声が聞こえだした。
ここでもまだネットが満足に繋がらず、熱性けいれんの正しい情報が入っていない為、その病院で6時間経過した後に様々な検査を終え、結果を説明されてさあサンパウロに帰った方がいいよと言われても怖くてハイそうですかと帰れない。道中何があるかわからないのだ。間違ってももうあの白目は見たくない。再発しないようにしてから退院させてくれと交渉するも、うまく伝わらない。そこで、会社同僚の女性とそのダンナさんに、電話を通じてブラジル人医師とのコミュニケーションをヘルプしてもらった。またそれとは別に、こちら在住で医師免許を持つ実業家の日系ブラジル人にアドバイスを求め、それぞれ言葉の面やセカンドオピニオン的なアドバイスで大いに助けてもらった。
この日は日中から数えて、ブラジルの人に何度助けを求めたことか。
思い起こせば実はこの旅行中、往路行程の最後にタイヤがパンクした。親切なホストの助けを借りて良き修理工場を案内してもらい、安いコストで元通りの状態に復帰したという出来事があったばかりである。つまりこの数日間、人に助けてもらいっぱなしだったのだ。我ら家族はなんとはかない存在かと思い知らされた。地球の反対側で1歳の息子に頓死されるかもしれなかった(※実はそんな大げさなものではなかったと今なら頭でわかるが、再発した時に冷静でいられるかと言うのはまた別の問題だと思う)あの瞬間、色んなことがらが頭を去来して、なぜか無常観に包まれていたのはつい先ほどの話だ。
大晦日の今日、サンパウロの大病院に移り検査を続けている。血液、尿、脳波、髄膜液、肺レントゲン、いずれも問題なしとなったが、息子の発熱は継続し、経過を見たいという医師の意向で入院へと移行した。げっそり痩せてぐったりした様子の息子は見るだけで涙気の毒だし、気丈に振る舞う姉も健気で涙が出てくる。現在、病室でこれを書いている。大晦日に参加を予定していたサンパウロ市民マラソン『Sao Sirvestre』はキャンセルしたし、家でのんびり年越しをするかというささやかな願いもかなえられないこととなったが、いまは息子が生きていること、家族そろって同じ部屋で年を越せること、我々を助けてくれたブラジルの人々に感謝する気持ち、でいっぱいである。
『熱性けいれん』については、小さな子供を持つ親であれば必ず備えておかねばならぬ知識であるように思うが、我々には知識が皆無だった。教えられていたのだが通り過ぎてしまっていたのだろうか。一般的にはみなさんの理解はどうなのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%80%A7%E3%81%91%E3%81%84%E3%82%8C%E3%82%93
小さな子供を持つ友人たちにはこの経験を伝え、心の準備が出来る様にアドバイスして行きたいものである。












