2013年12月31日火曜日

助け

ブラジルはサンパウロ郊外、高速道路の路肩、何台もの車が自分の脇を時速100km超で通り過ぎていく夕方5時半。視界のはじにはハザードの着いた自分の車、中には家族が3人でパニック状態。唯一車外に出ている自分は、身振りで助けを求めるのと、緊急連絡をしなければという二つの動作を試みるも、気が動転している状況ではまったくもって思うにまかせず、手も震え、どちらも中途半端にしか出来ない。そうこうしているうちに状況は刻一刻と悪化していく。。。

観念した、というのはああいう気持ちを言うのだろう。2013年12月29日は、恐らく人生で最も多く人に助けを求めた日であったはずで、生涯忘れられぬ日になることだろう。ちょうど満一歳になった息子が、行楽帰りの帰りの車内で突然身体を硬直させて気を失ったことに関連した一連の出来事である。

~熱性けいれん~

後で調べれば、それは『熱性けいれん』という1~6歳の幼児の7~9%程度によく見られる症状とのことで、数分放置しておけば痙攣はおさまるし、「単純型」であれば一度しか起こらないことが殆どというものであるらしかったのだが、予備知識のない我々にはまさに青天の霹靂で、全行程450kmのロングドライブのラスト70kmにさしかかった一家を奈落の底に突き落とすに十分なインパクトを持っていた。

ハンドルは小生、助手席に妻、後部座席運転手側に1歳の息子、後部助手席側に4歳の娘がそれぞれチャイルドシートに座ると言う構図。走行中、突然強めに泣き出した息子の様子を対角線にさりげなく振り返った妻が「死んじゃう、死んじゃう、車を停めて!!!」と絶叫した瞬間、バックミラー越しには思い出すのも恐ろしい白目をむいて気絶する寸前の息子の姿。車を路肩に寄せ、冷静に止めようとするも、あまりの動転にギアをパーキングに入れるのが早すぎ、衝突したかと間違えるほどガクンと急停車になった。息子はチアノーゼと言うのだろう、唇は紫に、顔色が蒼白を通り越して異様な色になっていた。意識が無い。

車外に飛び出して携帯で電話をしながらとにかく地元の人に助けを求める為に身振りで止まってくれとアピールするも、緊急連絡は繋がらず。もとより速度制限120kmの現場では、誰も止まるはずがない。これはダメだと思い、気を失う子供を絶望的な気持ちで片手で抱き上げて車外に出し、赤ちゃんが大変なのだと見せながらアピールを開始する。繰り返しになるがこのけいれんは重大なものではなく、楽な体勢にして様子を見るのが一番良く、大声で覚醒を促したりゆさぶったりしたら逆に良くないというのは後で知ることになる為、本人達はまさにその逆を行っていた。この世の終わりと思っている。妻も一緒にジェスチャーを始めた。

(良く考えたら脈拍や呼吸も確認しなかったし、心肺蘇生なども全く頭に浮かばなかった。恥ずかしながら全くもって愚かだったと今では反省している)

そんなことを始めて2分もたたないくらいだろうか、なんと救急車が視界に飛び込んできた。赤子を抱えて泣き叫ぶアジア人夫婦の形相をかろうじてみとめてくれたか、急減速し100mほど先に止まってくれたではないか。偶然にも空の救急車が、現場を通りかかったのであった。救急隊員に息子を手渡した時には彼の意識はうっすら回復しており、身体の硬直も解けていたように見えた。

救急車内では酸素が補給され、早速色んな数値を測り、異常がないことを確認し、本部と交信し、一番近い救急受け入れ病院を探してくれ誘導してくれた。次に高速道路料金所脇の救急隊詰所へとバトンタッチされ、2台目の救急車に乗り換えて私は4歳の娘とマイカーで追跡し、それまで名前しか聞いたことのなかった街・Indaiatubaの一般病院へと到着する。サンパウロへの帰路は増したことになるが、今思うと彼ら救急隊の対応・連係プレーは見事なものであって、時間的なロスは非常に少なかった。これは小生の数少ないブラジルでの経験から思うに、奇跡的な出来事と今では思わざるを得ない。

名の知らぬ病院に到着後、血液検査と尿検査の準備を進めていると突然息子の様子が急変し、また2回目の発作が起こる。すぐにドクターの手に渡り、そのまま奪い去られるように救急処置室へ。そこから先は親族も入れぬということでシャットアウト。その状況に妻は泣き崩れ、異国の知らぬ街の病院で見ず知らずの医師に何をされるかわからない不安で相当な混乱状態に。傍らで自分にできることは妻と4歳の娘をただ抱きしめて立ち尽くすだけという無力感。。。結局2回目の発作も終わった様で、鳴き声が聞こえだした。

ここでもまだネットが満足に繋がらず、熱性けいれんの正しい情報が入っていない為、その病院で6時間経過した後に様々な検査を終え、結果を説明されてさあサンパウロに帰った方がいいよと言われても怖くてハイそうですかと帰れない。道中何があるかわからないのだ。間違ってももうあの白目は見たくない。再発しないようにしてから退院させてくれと交渉するも、うまく伝わらない。そこで、会社同僚の女性とそのダンナさんに、電話を通じてブラジル人医師とのコミュニケーションをヘルプしてもらった。またそれとは別に、こちら在住で医師免許を持つ実業家の日系ブラジル人にアドバイスを求め、それぞれ言葉の面やセカンドオピニオン的なアドバイスで大いに助けてもらった。

この日は日中から数えて、ブラジルの人に何度助けを求めたことか。

思い起こせば実はこの旅行中、往路行程の最後にタイヤがパンクした。親切なホストの助けを借りて良き修理工場を案内してもらい、安いコストで元通りの状態に復帰したという出来事があったばかりである。つまりこの数日間、人に助けてもらいっぱなしだったのだ。我ら家族はなんとはかない存在かと思い知らされた。地球の反対側で1歳の息子に頓死されるかもしれなかった(※実はそんな大げさなものではなかったと今なら頭でわかるが、再発した時に冷静でいられるかと言うのはまた別の問題だと思う)あの瞬間、色んなことがらが頭を去来して、なぜか無常観に包まれていたのはつい先ほどの話だ。

大晦日の今日、サンパウロの大病院に移り検査を続けている。血液、尿、脳波、髄膜液、肺レントゲン、いずれも問題なしとなったが、息子の発熱は継続し、経過を見たいという医師の意向で入院へと移行した。げっそり痩せてぐったりした様子の息子は見るだけで涙気の毒だし、気丈に振る舞う姉も健気で涙が出てくる。現在、病室でこれを書いている。大晦日に参加を予定していたサンパウロ市民マラソン『Sao Sirvestre』はキャンセルしたし、家でのんびり年越しをするかというささやかな願いもかなえられないこととなったが、いまは息子が生きていること、家族そろって同じ部屋で年を越せること、我々を助けてくれたブラジルの人々に感謝する気持ち、でいっぱいである。

『熱性けいれん』については、小さな子供を持つ親であれば必ず備えておかねばならぬ知識であるように思うが、我々には知識が皆無だった。教えられていたのだが通り過ぎてしまっていたのだろうか。一般的にはみなさんの理解はどうなのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E6%80%A7%E3%81%91%E3%81%84%E3%82%8C%E3%82%93
小さな子供を持つ友人たちにはこの経験を伝え、心の準備が出来る様にアドバイスして行きたいものである。

2013年12月7日土曜日

マンゴーとバスとGood Will

■ブラジリアンマンゴー
ブラジルのマンゴーはすこぶる美味で、この国に到着して間もない娘(もすうぐ4歳)の大好物1位に電撃ランクインした。この娘、日本でフルーツをほとんど食べなかったタチで、ましてやトロピカルフルーツのマンゴーなぞは全く対極にある存在だと思われたのだが、この国のマンゴーをためしに一口食べた瞬間から、彼女の人生観が大きく変わった様子とみえて、それはそれで親として大変喜ばしいことであった。

そのマンゴーであるが、どのスーパーでも売っているのだが、フェイラと呼ばれる住宅街の路上を占拠して開催される青空朝市で買ったものが最も受けが良いということがわかり、いつもそこで買うことにしていた。昨日もちょうど在庫が切れていた折、マンゴーは無いの?のリクエストをした彼女に対して「明日フェイラがあるからパパ買いに行ってくるよ」、と軽く受け答えしたのを覚えていて、かくして今朝幼稚園バスに向かうエレベーターの中で私は『マンゴーくれぐれも宜しくね』的なご下命を拝受するに至ったのであった。

■幼稚園バス
娘は、今週やっと一人でバスに乗車して登園し、一人でバスに乗って帰ってくることに慣れた。先週は登園時母親と弟(1歳手前)と一緒にバスに乗り、半日で切り上げ(というよりグダグタになり)、タクシーで母親と弟とほうほうの体で帰ってくる、を繰り返していた。

今週は慣れたので新しい時間軸である。07:45に自宅前に幼稚園バスが来る。何故か娘泣く、乗せる。男の先生に抱っこされて泣いたままの娘を乗せたバスはさながらドナドナである。09:00までに出社する間に時間があるので、この時間をジョギングに充てるとして活動していたのだが、今日はマンゴー買付けの命令があったので、走りがてらフェイラに行くことにした。

■フェイラでマンゴー
いつもの露天商の前で止まる。すぐに味見を差し出される。そこそこに熟れているマンゴー"Palmer"を3つくれと伝えると、ひょいひょいとつまんで薄茶色のビニール袋に入れてくれる、「はい、みっつで10レアルだよ」、「9しか無いや、いいだろ?」「もちろんいいさ、ありがとう」みたいなやりとりをして、また走り始める。すると目の前からウチの娘の幼稚園バスが走って来るではないか。

このあたりの道路は9割以上が一方通行であるが、日本人の住む家が点在している為、ピックアップをするためにはぐるぐると周囲を巡回する様にくまなく回らなくてはならない構造になっている。したがってあのバスだいぶ前に出発したよなと思ったけど割と近くにいたなみたいなことがしばしばあるのだ。

見ると娘は男の先生に抱っこされたままなのだが、楽しそうに遊んでいる風だ。おーいと手を振ると、すぐにドライバーさんは気が付いてバスを止めてくれた。今日は蛍光色のジョギングウェアだし目立つ。急停車に近かったので、後ろの車が苛立たしげにクラクションを鳴らす。先生が、何かあったのですか?くらいに急いで窓を開ける。

■よかれと思って・・・
『あ、いや、マンゴー買ったよって伝えて下さい』
先生、一瞬ポカンと間があり、あ、はい、みたいな感じで走り去る。娘は聞こえたか聞こえなかったかわからないけど、僕の姿をちらりと認めた様子であった。でもそれを確認出来ないタイミングで、バスはすぐに発車した。

僕の想いは、泣きバスでスタートした娘に、おうちに着いたらマンゴーがあるっていう楽しみを与えたい、ただそれだけだった。夕方のマンゴーさえあれば、昼間に多少つらいことがあっても一日を乗り切れるのではないかと。しかもまさか再会するとは思っていなかったジョギングの最中に突然目の前に現れたバスに対して、とっさに考え付いてのことだった。でもよく考えると、おーいと振り上げた手に持ったマンゴーは、中身の見えにくいビニール袋に入っていたと気が付いたのは帰って暫くしてからのことだった。

この話を家ですると、「やだ、なんて迷惑な。忘れ物持って来たのかと思うじゃない。運転手さんも先生も忙しいだろうにまったく・・・」という反応を頂戴した。まぁ、確かにあの男の先生の妙な間はひっかかるものがあったし、薄茶色のビニール袋の中身が外から見えないとすれば、『マンゴー買ったよ』と突然言い出したこの蛍光色のジョギングウェアの男はいったいどうしたのか思うのかもしれない。しかし褒められると思って発表したら逆に冷や水を浴びせられたという朝の気持ちは、こうして文章にするしか解消の方法が無いのである。

Good Willが逆手に取られるこの構図、しかし誰かに似ていると思う。ああそうだ、「天然」と家族で笑っていた、ウチの父親が母親に叱責される構図と、酷似していることに気が付く。そうか、そういうことなのか。。。

2013年12月5日木曜日

街のしかけ・・・なかなかに気の利いた趣向

発見してしまった。皆は気が付いているのだろうか。
これはIbirapuera公園の横にある、Monumento às bandeirasという像で、観光名所にもなっている、街のシンボル的存在。そのすぐ横にある歩行者用の信号のシルエットは・・・









































やるじゃない、なかなか。よくよく見るとわかるという地味さが良いよね。この他にも、サンパウロ市内にはMASP美術館前、そして東洋人街リベルダージにもそれぞれ街のシンボルを切り抜いた信号があるのを、私は知っている・・・。見つけ次第、どんどん挙げて行きたい。他にもっとカネかけるべきところがあるんじゃないのか?という意見もあるにはあるわな(笑)


2013年12月3日火曜日

穴があったら・・・

会社の前の道路(車がビュンビュン走る車道)に、ある日このようなものがありました。

















そう、結構なデカさの穴と、それを目立ちやすくする為に施されたいくつかの処理。。。
平日の昼や夕方には立派に渋滞する大通りで、この対応とは、なんともはやワイルドです。

この都市の路面はかなりガタガタで、気が付かないでフツーに走行するとイキナリバーン!みたいな衝撃の走る規模の凹みならゴマンとあるわけですが、こうした完璧な穴も、結構あいてます。その都度、こうした応急処置がなされ、いつかはわからないがやがて工事人がやってきて補修が行われるわけです。

こういうものを眺めると、なんとういうか、日本ならどうだろうかとついつい思ってしまうんですよね。こんな状態で放っておいて危ないじゃないか、すぐに補修せよ、とほとんどの人が思う、もしくは通報したりするんだろうなと。でもここブラジルでは穴は当たり前みたいな感覚なので、逆に人々の危機意識・危機察知能力が高められているのではないかと。となるとニホンジンは弱った人たちになっていやしまいかと。。。

そんなことを思いながら道を歩いていたら、この穴の隣で『とうもろこし茹で削ぎ販売ワゴン』が商売をしていた。茹でられたとうもろこしを、そのまま持ち帰っても良いし、その場でナイフで削いでもらってマーガリンをべっと乗せてカップで持って帰ってもよいという、そんなものを誰が買うんだ?という移動販売に、お客さんが付いていた。聞けば一本3~4レアル(¥130~175)だという。。。

うーん、なんだかとってもブラジルな、帰途の光景なのでした。




2013年11月27日水曜日

一時帰国と家族呼び寄せと幼稚園とサン・シルベルトリ(São Silvestre)マラソン

気が付けば一時帰国で日本に出発した日から、ひと月が経った。
日本に帰って東京本社と実家に顔を出し、引っ越し作業をして家を空にし、25時間のフライトでとんぼ返りしたがその帰途には4歳前と1歳前の子供たちが加わった。こちらに着いてからしばらくは時差ボケの子供たちとの生活が始まった。家族との生活は想像を絶するタフさで、しばらくBlogを更新する力が無かった(カレー税とか歯医者とか、おちゃらけの内容はふとストレス発散みたいにして衝動的に書いたものだった)。

自分の想像が甘かったというべきか、今思えば独身でのサンパウロ生活は楽だった。病気などもあったが、時間管理が全て自分の思いのままと言う、実にお気楽な独身生活だったと言わざるを得ない。気が付けば結婚して以降一人暮らしに戻ったのは9年ぶりであって、独り身の自由度はかなり久々のものがあった。

往路つまりサンパウロから日本に向かうフライトは、通常のフライトのように出張報告書を作成する必要もなく、ただひとりで帰るだけの優雅な旅であって、映画を10本以上も見て満喫したので25時間のフライトもあっという間だった。だが帰りは違った。二人の子供たちが寝ない、食べない、歩きたい、次から次へと不満を呈してくるのでそれに対応したり、おむつを替えたり、泣く赤ん坊を抱っこして通路を散歩したり。それを見てお姉ちゃんも散歩したがるので対応したり・・・。この年代の子供二人を連れて12時間のフライトと13時間の計2本のフライトを敢行するということは、たとえトランジットで一晩ホテル泊を挟んだとしても非常にヘビーなものであった・・・、ということに乗ってから気が付いた。やっぱり想像力が、貧困だったのだ。

その分、妻に日本で負担を強いていたわけだ。これからの家族のサンパウロ生活を素敵なものにして、その埋め合わせをしたいと思っている。

家族が着いたら着いたで、いまは幼稚園探しに悪戦苦闘している。自分がサンパウロ独身時代に5軒下見をして予め決めておいた幼稚園は、妻と娘を伴った初回見学で彼らにダメ出しをされた。改めて見学の旅が始まった。手作り感があって、こぢんまりとしていてのどかで日本語率が高くて良いと父が思った場所は、母に言わせるとどうやら「違う」とのことだった。3~4歳の多感な娘の変化時期に5か月も留守にした自分は、彼女の感性を量るアンテナは持ち得ないということだと得心した。

ここサンパウロでは、日本語100%の幼稚園は無く、ある程度ポルトガル語環境下に子供を露出させることを覚悟しなければならない。方針としては日本語の語幹をまず育てたいと思っているので、なるべく外国語には触れさせたくないのだが、ある程度は仕方がないと腹をくくるしかなさそうだ。それよりはソフト面及び設備環境のより良いところをということで、スクールバスで自宅から35分程度の場所も視野に入れて改めてリサーチを始めている。環境の変化でただでさえナーバスになっている娘に、新しい幼稚園という追加のプレッシャーを与えることに対して親二人で戦々恐々としている日々だが、一般に言われるように「子供の適応力はすごいですよ」みたいなことに結果的になっていればと祈っている。

そんな状況下、健康維持のためのランニングだけは継続していた。そしてある知人から誘われて、大晦日のサンパウロ15kmマラソンにエントリーしてしまった。
http://www.saosilvestre.com.br/
「サン・シルベルトリ(São Silvestre)マラソン」だ。
とりあえずその知人と私とで日本人2人チームを作って、走る予定にしている。もっとメンバーを増やしたいとも思っている。日本を出発する前の私の考え方や生活からしてみれば信じられない変化で、我ながら驚きでもあるのだが、気が付けばいきおいでエントリーしていた。これも駐在開始→入院→健康マインドUP→ジョギング開始という環境の変化が背中を押したものだ。面白いムンド・ノーヴォを今まさに体験させてもらっている。ありがたいと思う。

ブラジルと言えばナマでしょ

ついに買いました。コレを。

オレンジジュース絞り機!




















この国の魅力はやはりフルーツの安さ。
どんな定食屋でも生絞りフルーツジュースは置いていて、昔ほどじゃないけど一杯¥200内外で飲めるというのが、この国の魅力だと思っている。
だから、これからフレッシュみかんをスーパーで大袋買ってきて、絞ろうと。
だいたい2個で100mlのジュースが絞れる。
フルーツは20個くらいで¥200~300、つまり1リットル絞るのに¥200~300。
こうして聞くとあれ、1リットルパック買うのと同じじゃん、みたいになるかもだけど、フレッシュだから当然めちゃくちゃウマイんです!!!
ありがたや、ブラジルの自然。

2013年11月9日土曜日

歯科医師のおとこ気

先日一時帰国した機会を利用して、歯科検診を受けに行った。横浜にある小さな街の歯科医なのだが、若き院長先生の説明が溌剌としていて、かつ指示がビシビシと的確で体育会系の職場の雰囲気があり、気に入って10年以上定期的に通い続けているところである。

なにしろ彼の自信に満ちた立ち居振る舞いが好きだ。処置をする前に必ず写真を見せ方針を説明、予め患者に確認を取ってから治療をスタートする。患者の立場に立ってコメントもしてくれ、双方合意のことしか行わないという、非常に民主的な歯科医なのである。コメントにしっかり時間もかける。そして治療の作業中にも他の台で待機している患者への対応について、歯科助手にビシビシと指示を飛ばすのである。

先生は6台程度ある治療台を全て埋め、そこで患者を待たせる。待合室が狭いという事情はあろうが、院に着いた患者は殆ど待つことなく、たちまちのうちに溌剌先生のパフォーマンスステージに上げられ、一人の聴衆となるのだ。溌剌先生は、助手には容赦ない。新人と思しき助手がなってないと、指導役の助手をバチっとその場で叱る。横で聞いてる患者としては多少いたたまれなくなるが、逆にその様な自信満々な主に削ってもらえると思うと、間違いはないのだろうとなんだか悪くない気もしてくるのである。

当然、先生の腕前も一流だ。痛みを和らげる処置は非常に繊細だ。自分はこんな優しいケアをしてくれる歯科医を見たことが無い。また、親知らずを2本やってもらったが、その際の大工仕事的な力技ももちろん一流であった。野球でいうと打ってよし投げてよし、柔道でいうと立ってよし寝てよしと言ったところか。ところでオマエは親知らずを他で抜いたことがあるのかと言う質問はこの際受け付けないことにする。

そんな先生は、6月に駐在に出発するときにも検診に行きいろんな話をしたし、最期に頑張ってと送り出してくれた。今回一時帰国で戻った時には「家族呼び戻しに戻ったんだね」みたいな話を向こうからイキナリしてくれるなど、ああ、10年も通うと先生とも深い仲になってきたなと熟成感みたなものを感じて心地よかった。

良かったのだけど、いつもと違うことが起きた。今回は先生がこの『10年来の常連で、今日は一時帰国で来ていて次回の来院は1年先になるかもしれない患者』の治療を、最後まで自ら担当してくれたのである。そう、あの歯石掃除まで。お察しの良い男性諸氏ならもうわかるでしょう、あの歯石掃除は、やっぱりゼッタイに若い助手さんじゃないとダメなのに。助手さんが奥の方をぐいーっと覗き込んだときにひょっとしてハプニング的にどこかが当たっちゃうんじゃないか、みたいなあのトキメキはつらい治療を耐え抜いた患者への最期のご褒美であるはずなのに・・・。

なのに、今回は先生がおとこ気を見せてくれて、全部仕上げてくれた。いままで、先生が自ら歯石掃除までしてくれたことなんて、一度もないのよ。人件費の高い院長手ずからお掃除だ。きっと助手さんがやるよりきれいになってるんだろう。本当にありがとう、先生。でもなんだろう、この胸にポッカリと空いた穴みたいな感傷は・・・。

カレー税

カレー税というものが、ある。
いや、そうした概念があったというべきか。

話は1999年、私が大学を卒業し会社に入社したころにさかのぼる。
勤務先は浜松町、入居した会社の独身寮は千葉県の津田沼と言うロケーションだった。

我がソウルフード・カレーハウスCoCo壱番屋は、現在関東で見られるようにはまだ進出しておらず、都内はおろか関東圏にぱらぱらと点在するのみだった。今でこそ会社の最寄駅である浜松町駅周辺に2店舗存在(浜松町駅北口店及び芝大門店)し、近接したロケーションにも関わらず高い商品力からいずれの店も人気を博している訳であるが、当時はそんな夢のようなことは望むべくもなく、私の通勤経路に最寄りの店舗はと言えば、今やマニアの間で影の旗艦店と噂される秋葉原店であった。

通勤定期は浜松町=津田沼で購入しており、秋葉原駅は定期券の圏外となる。つまり秋葉原で途中下車してCoCo壱のカレーを食すとなると、行って来いで130円×2つまり260円の余計な支出が発生することになる。260円と言えば人気トッピングのほうれん草(200円)やロースカツ(250円)を乗せても釣りが来る、もっとわかりやすく言えば、オリジナルドレッシングと絶妙にマッチすることでつとに有名なツナサラダ(280円)に届こうかと言う規模感の金額であり、それはもはやせっかくCoCo壱を食いに行くのになぜトッピングの費用が歩留まらねばならぬのだという自己矛盾というか焦燥感すら感じさせる金額であった。

といった気持ちと訣別する、もしくはある一定の客観性を持たせたいがために、私が自らの中で生み出した概念、これが、カレー税である。つまりこの260円はCoCo壱のカレーを食うのに必要な税金であり、通勤経路のアヤでたまたま駅と店舗が一致しない不幸な人は皆一様に負担しているものであって、仕方のないものなのだ。寧ろ、自分はそうした障壁をもろともしないでブランドを支持しようという熱狂的なファンであることの矜持すら感じさせる、そんな概念、それがカレー税。喜んで納めようではないか。

2013年10月12日土曜日

体重測定・9kg減量!

4か月ぶりに自宅に戻り、体重計に乗った。
前にも書いた通り、病気して以降毎日走り始めて体重計に一切乗らず、この日を迎えた。
結果はこの通り、69.5kg。

2013年10月11日測定@自宅























じゃ、どのくらい減ったのと言えば、比較になるのが次の写真で、これは「体重ノート」と称して自分の体重や体脂肪等の数値をランダムに量る度に記載していたもので、当然これを付けていた頃は奔放に飲めや食えやしていたのでこれによって何かが変わることは一切なかったが、何故かつけることはつけていたというノート。どういう訳か写真表示の回転が出来ず見ずらいですが、出発前の最終計測データは、2013年4月25日で78.6kg。恐らく6月アタマの赴任直前はこの時期より減っていたことはないだろうと思われ、つまり4か月間で9kg以上のダイエットを実行したことになろうかと。

最終行の日付が2013年4/25、最初の数字が体重で78.6kg

世間のBMI計算によると、身長169cmのあなたの理想体重は62.8kgということで、まだまだ理想とはかい離があるわけですが、この結果にはいったんの安堵感を覚えます。期待しないようにはしていたのだけど、内心大いに期待していて、70kgの大台を割ったことに非常に大きな満足感を感じています。次は現役時代の61kgを目指して引き続き肉体改造に取り組んでまいりますっ。



2013年10月1日火曜日

葉には葉を

いやはやワイルドである。

いつも走っている例の公園は石畳的な舗装が施されているが、雨や風が続くと路面に枯葉がたまり、それが濡れると滑りやすくなって危なくなる。だから定期的に職員さんが掃除してくれているわけなのだが、その道具がこれである。


















確かにヤシの木は園内に大量に植えられてあり、ヤシの枯葉の供給量については心配の必要がまったくない。たぶん、長年の運営ノウハウから紡ぎだされた叡智なのだろう。じっさいに掃いているところを見ても、たしかに効率がよさそうではあるのだが、ヤシの枯葉が職員公認のオフィシャルツールになっているなんてなんだか面白くて、切り取らせて頂いた次第。

2013年9月20日金曜日

ブラジルで運転免許を

一言でいうと、面白かった。
何がって、運転免許試験の仕組みがすんごくラフだったから。

ブラジルは道路交通に関するジュネーブ条約に調印しておらず、また日本政府との個別協定も無い為、国際免許証が使えない。しかし日本の運転免許証があれば、実技試験を受けることで書き換えが可能。その仕組みは道路交通局が取り仕切っているが、システムが非常にもろいというか、ざっくばらんというか。。。

試験場は、土地が余り気味の広めの一般道(笑)。サンパウロ市内には合計4か所の一般道を使った『試験場』があるらしい。試験当日、試験官がやってきて、その試験官が助手席に乗り込んで、縦列駐車、坂道発進、通常走行をマニュアル車の1速と2速だけを使用して行うのを観察、問題が無ければパスするというもの。車はこちらで用意する必要があるが、だいたいにおいて民間の教習所が車を提供することになる。受験生は、どこぞの教習所から集められて当日集合している。この試験の申し込みは、教習所経由でなければならない。都合、その前に2時間ほど教習所が実施する練習がセットになっている。

今日の試験は、120名の受験生が集まっていた。ひも付いた教習所は恐らく3軒。だらーっと並ぶでも並ばないでもない感じの受験生に紛れて雨の降る中待つこと2時間。受付らしき書類チェックと署名を済ませ、待つこと1時間。やっと試験が始まり、5分で終了。無愛想な試験官氏が話した言葉は「スタート、よし、右、右、おわり」。
待っているの図 屋台も出ています

カラフルな車が教習所の車 (車種は統一でフォルクスワーゲンGOL)

雨の中、ひたすら待ちます

やっと試験が流れ始めた!


我々ニホンジンは勝手が良くわからないので、送り迎え含めなじみの旅行代理店経由でオーダーしたデスパシャンチ(despachante)という通称口利き屋的な日系人の方のヘルプを存分に受けながら、上記の過程を無事にやり過ごした。もちろん手数料を余分に支払うことにはなるが、外国人が自分で一貫手続きを行うのはほぼ無理であるが故。

そのデスパシャンチが取りまとめた今回のグループには、同じ境遇のサラリーマン駐在員が他に3人居て、みなそれぞれにジャンルの違う企業でお話が出来て、それはそれで情報交換になって面白かった。がいかんせん待ち時間が長すぎて世間話も最後には尽きてしまったという最期を見たのだが、全員合格だったのでそれはそれで良しとしよう。なおデスパ氏、来週も日本人4人を面倒見るそうだ。駐在員奥様も含めた女性2名と男性2名なのだという。サンパウロに駐在を開始する日本人は、確実に増えている様子。

しかし思い出されるのは僕の練習を担当してくれた教官。朗らかが足を生やして歩いているような人物である教習所教官のマルコアントニオ氏は、奥様がサンパウロ州政府で働く敏腕コーディネーターらしく、練習している当日も、「おー、今カミさんから仕事で成約につながったと報告があったよ」なんてことを嬉しそうに隣で運転している僕にリアルタイムに報告してきたりして、微笑ましかった。練習もそこそこに、「あー、ここはダルいから3速入れちゃってー、次4速ね」「コース外だけど、面白い場所があるから見に行くか?」といって、試験では使用しないスピードを出すことを許したり、立ちんぼのコールガールがたむろする場所に足を延ばしてくれたりした(笑)。この教官の仕事がどの程度の稼ぎになるのかはわからないけど、この国の公務員といえば高給で知られているので、恐らく奥さんの方が稼ぐのだろう。12歳の息子が一人とのことだったが、彼の底抜けに明るいその雰囲気と、キャリアウーマンの奥さんとの家庭というものに思いを馳せてなんだかほっこりした練習タイムでもあった。


なんだかつれづれ風になったけれど、とにかく合格したので、明日デスパシャンチさんが道路交通局に行って代理で受け取って、会社に届けてくれるみたいです。

2013年9月18日水曜日

病弱野郎

なにしろ大気が乾燥しているらしいのだ。

喉が痛むと思ったら咳が出て、熱が出た。これで風邪のサイクルも終わりだと思ったのだが、終わらなかった。9/5くらいに症状が出始めて、もうかれこれ2週間弱、風邪の症状に悩まされている。大気が乾燥している中で咳をコンコンしてたら、肺が痛くなってえらい苦痛に。眠れないほどの苦痛にベッドの上を人知れずのたうち回った。レントゲンには何も異常は無く、とにかく乾燥している空気にあなたは慣れていないので、今回の様な症状が出てしまったのですよと。

こちらに来て三か月が経った。その間に入院が1回と通院が2回。なんだかとんでもなく病弱野郎になったみたいで不本意だ。とりわけ、一回目の入院後、もう病気はコリゴリだと毎日ランニングを始めて以降、痩せるわ身体は軽いわで、すっかり健康体になったつもりだった。にもかかわらず風邪をひいて、そしてこじらせて、挙句の果てにはランニングも7日間お休みせざるを得なくなった。

まだ胸は痛む。だけどこのまま走らないのは癪にさわる。10月の一時帰国の時に初めて体重計に乗るときに、出来るだけ軽くなっていたいのだ。だからお休み期間は短くしなくては。再開後は思いっきりリハビリペースで、健康体の早歩きのオジサンに余裕で負ける速度だ。でも走れるだけ嬉しい。時折咳き込んでゼーゼーやっているとさすがにアヤシイ奴みたいではあるが、でも今まで臥せっていたのとでは心理的に大違いだ。

環境が違うと、身体に色んな反応が出るというのが、今回身を以てよくわかった。なんか抵抗力の無いヤツみたいで悔しいけど、歳のせいもあるだろう。いままで東京時代に不摂生の限りを尽くしていたツケもあるだろう。そういうものを、36歳というこの良い区切りの年で一回精算させてもらおう。10月9日の一時帰国出発までに、浄化をがんばる。

2013年9月3日火曜日

Rádio Taissô ラジオ体操 in ブラジル

毎朝走っている公園(Parque Tenente Ciqueira Campos通称TRIANON)の中で結構なスペースを取って、とあるグループがラジオ体操(Râdio Taissô)をしている。ラジカセに録音された音源を使って、あのラジオ体操をしている。サンパウロの東洋人街・リベルダージでは毎朝100人以上が集まってやっていると聞いたことがあったが、ここサンパウロのど真ん中の小さな公園で、恐らく20人くらいだろうか、日系人ではないブラジル人が集まっているのにはいささか驚いた。

尚、参加はタダである。

それについてだから何とくどくど書くつもりも無いけど、なんだか面白い光景だし、意外とGlobalな普遍性あるのか、ラジオ体操よ?なんてことを思いつつ、またポルトガル語のスペル(Rádio Taissô)だとなんだかタイッソーってなってて(Sが一個だと発音濁らなきゃいけないのでSを二つつなげてる、だからこちらではヤキソバもYakissobaになっている!)とっても面白いなぁなどと眺めつつ、走り抜けている次第。


2013年9月1日日曜日

brasileiros bonitos #1 今日のブラジルイケメン#1

女性ファンのみなさん、おまたせしました。イケメン第一号は、会計を勉強中の大学生、Thaigo(23)君です。父上の経営するバスタクシー会社のいちドライバーとして彼が派遣された際に、我々を運んでくれたのが縁で知り合いました。










































来年大学を修了したら、競合が少なく叔父さんが住むMato Grosso州で会計事務所を開業し、大規模農園事業会社から職能部門全般のアウトソーシングを受注するプランを描いているという、大した若者でした。















































とりわけ注目されるのは、彼の手の綺麗さ。ハンドルをさばくその手の甲の美しさ、とくとご覧下さい(笑)。

なお、彼は独身です。

2013年8月11日日曜日

一か月達成とイビラプエラ公園

サンパウロに来てすぐ入院手術をしたことは、自分にとって大きな出来事だった。結石という一番根の浅い問題で助かったが、これまでの不摂生を悔いた。このままだとより大きな病気を招くに違いない。だいいち、運動を全くしてこなかったこの10年間くらいの生活スタイルが、自分として嫌いだったのにも関わらずここまでダラダラと来てしまっていたことに腹が立った。

退院後一週間して管が抜けた日(7月12日)から、走り始めた。継続を是とするこの運動、最初から高いハードルは禁物と、時間などに決まりを設けずに始めた。毎日とにかく動けば良い、と。だいたい1回20~30分くらいのジョギングとなった。

結果、今日をもって一か月間、毎日休まず継続運動を達成した。雨の日も走った。出張先のコーヒー農園でも欠かさず走った。早朝から移動で夜も会食などという運動のための時間が少しもとれない日が合計2日ほどあって、その場合は翌日や前日に朝昼二回とかざっくり2倍の時間運動することで繰り越しOKとした。

結果として、明らかに走れるスピードが早くなったし、身体も目立って軽くなってきた。ズボンのウエストもだいぶゆるいし、顔からむくみが消えてきたような気がする。だが腹はまだへこまない。これは当分先なのか。体重測定は、10月に一時帰国する時の楽しみとしてとっておくことにしようと思う。もともとこのウチには体重計もないので都合が良い。

今日の写真は、以前このブログでも文章だけで紹介したサンパウロ市民の誇るべき素晴らしい公園、Ibirapueraイビラプエラ。大人も子供も、ランナーもサイクリストもスケートボーダーもワンちゃんも、みーんな健康的な時間を過ごす素敵な場所。環境がよいし、市民に利用されつくしている感がまた良い。土日はいつも人だらけなのである。一か月記録達成の今日は、記念にこの場所で50分も走った。どれくらい続けられるかわからないけど、健康体を取り戻したい。

9番入口。左手奥には警備員が常駐。
自転車がとにかく多い。スケボーも大人気。

警備もしっかりで安心
ブラジルと言えば当然これでしょう


自転車ポロ。こんな面白スポーツもやってる人たちが居て、多様性があるなと。
バレーボールも人気スポーツ。草バレーってそういえば日本であまり見ないなと。

ここは子供天国だとおもう

広いしねー
遊具の種類もめっちゃ多い!早く子供を遊ばせたい。


2013年8月5日月曜日

巻き寿司の練習

・・・日本男児たるもの、寿司のひとつ握れなければならぬ。
というくらいに、プレッシャーがかかっている、ような気がする。

ブラジル人ならば、日本人シェフには「スシ」を期待するだろう。
それくらいに、街にはテマケリア(『手巻き寿司の店』的な造語)があふれてる。「ポルキロ」というブラジルスタイルの量り売りランチ店でさえ、巻き寿司はサーモンの握りとともに必ず一角を抑えている。とにかくここサンパウロでは、おそらく他のどの外国都市でそうなっているよりも、スシは有名だ。

来る水曜日8/8、私はJapan Nightを主催することになり、一人日本人シェフとしてその腕を振るうことになった。場所はいつも弊社が商売上大変お世話になっているコーヒー農園。今年何度も日本からのお客さんを受け入れてくれた場所。お返しに何が出来るかと考え、和食ディナーを振る舞うことにした。そのコーヒー農園には立派なゲストハウスがあり、当然キッチンも立派にしつらえてあり、専属のGasparinaさんがいつもおいしいComida Mineira(ミナス州の料理)を作ってくれる。

その場所をお借りして、料理をすることになった。献立は、
太巻き寿司、豚汁、野菜天ぷら、鶏の唐揚げ、揚げ出し豆腐的な小鉢。
鶏の唐揚げは小生の得意技、揚げ出し豆腐は居酒屋魚民でバイトしていた時にさんざん作らされた逸品で安定感は抜群だ(笑)。豚汁、天ぷらもやれないことはないだろう。ただ、寿司は一度も作った経験がない。でもブラジル人は寿司が大好きだ。だから、Japan Nightでこのメニューを外すわけにはいかず、入れてしまった。さすがに握りは素材が調達できないだろうから、せめて巻き寿司にしてみようと。

サンパウロは東洋人街リベルダージにある日本食材というかもはやアジア食材総合スーパーである『丸海』にて仕入れを終えた。なんと巻き簾もあり、海苔も高価ではあったがよさげなものを調達できた。高級日本米含め、〆てR$266(約12,000円)の仕入れだ。食材は抜きである。うーん、気合十分だ。しかし不安だ。スシが不安だ。酢飯すらつくったことがないんだ。

仕方ない、リハーサルだ。
食材は買ってなかったが、家にあったツナ缶を破壊し(缶切りが必要なタイプであったことを買った後で知り、しばらく眠っていたシナモノ。缶切りは船便ですぐ到着するから買いたくない。今日は不安が勝ち、意を決してベランダのコンクリートに置いて堅い金属で上から何度もたたき、ムリヤリ開けた・笑)、何故か冷蔵庫に残っていたズッキーニを軽く茹でてきゅうりに仕立て、ツナキュウリ太巻きに挑戦する。

炊飯器は当然無く、鍋も小型の雪平鍋一個のみだ。ふたもない。かつてボーイスカウト時代に習ったアルミフォイルでふたの代用にして炊く方法にトライだ。しかし昔も習っただけでやったことはない。何故ならいつも装備は揃っていたからだ。なんとか炊けた。水分が少し多かった様だが、奇跡的に焦げずにしっかりと炊けた。リハーサル用シャリの役は十分に果たすだろう。

酢飯を作る。ミツカンさんの「すし酢昆布だし入り」で楽をさせてもらう。簾に米を並べる。巻きやすい量が不明だったがYou Tubeに巻き方が出ていた。ツナマヨとズッキーニを載せ、You Tube通りにくるくる巻いてみる。ご飯が水っぽかった上に寿司酢でさらにゆるくなり、また水切りが出来ないツナマヨとズッキーニのせいで水分がすごい。だいぶゆるいぞ。

切るときも、ゆるゆるなので苦労した。見てくれはだいぶ不細工だ。しかし不安は解消した。このリハーサル、やってよかった。だってこの不細工な仕上がりでも、街のポルキロよりはだいぶ素敵な雰囲気を醸し出していたから。うーん、そこはやはりニホンジンというところか。水曜日が楽しみになってきた。
リハーサル巻き寿司

2013年8月1日木曜日

郵便配達人 Carteiro

フライトまであと3時間半、空港近くには何もない。
しかたなくホテルロビーで待機していたら、目の前を通り過ぎる郵便配達夫。
この制服がとてもいかしていたので写真撮影をオファー。
するとせっかくなら自転車の前でとポーズをとってくれた。

彼はCORREIOSという国営郵便局の配達人。
この自転車のカラーリングと制服と制帽のすべてがマッチしていて、カワイイ。
日本で言うと日本郵政のユニフォームと赤い郵便車かバイクというところなんだろうけど、どうしてだか明るさが違うと感じる。カラーリングのせいか。

こんなことが物珍しいという感覚は、住み始めてしばらくしたら薄れるだろう。
だけど薄れる前に、この気持ちを残しておきたくて、お仕事中の彼のお時間を少し拝借した次第。
Carteiro, Center Patos Hotel前にて①

Carteiro, Center Patos Hotel前にて②


2013年7月30日火曜日

わらしべ長者的な・・・

社内、社外を問わず、サンパウロを訪れる色々な方々にお土産を頂戴している。だいたい気を使っていただいて、日本食材などが多くて本当にありがたいのだが、今日、面白い偶然が起こった。

先々週来伯した弊社の後輩、みそと乾燥わかめを持参してくれた。しかもお味噌はだいぶ重かっただろう大型の品物で、きっと半年持っちゃうんじゃないかというサイズ。それにそうめん揖保乃糸という土産だった。「今、日本は夏なので」という、理由としてふさわしいのかどうかの判別がつきにくい枕詞を武骨な彼から聞かされた時はすぐに状況を理解できなかったが、その場でうまい返しが出来なかったことだけは確かだった。こっちは冬だがという返しは、無粋に過ぎるというものだ。

いずれにせよちょうど以前スーパーで買ってパスタに使った玉ねぎとズッキーニが微妙な分量残っていたので、わかめと一緒にぶち込んで超ヘルシーな味噌汁ディナーを実行した。米はまだ炊けないのでそれだけでと思ったが、さすがにさびしかったのでまさかのそうめんを別で茹でてあわせてみた。パスタ以外の汁麺モノに飢えていた身には、これが意外とイけた。

翌日、とある知り合いの知り合いみたいな人に会う機会があった。その人も気を利かせて日本から食品を持ってきてくれた。レトルトカレー。その翌日、早速カレーそうめんを敢行する。これがまたイけた。なにしろ米を炊ける物品はもうすぐ到着する船便荷物に入っちゃっているので、こちらで炊飯器を買うのも悔しいというそういう状況下で、そうはいってもご飯と一緒に食べるとたいそう美味かろうものだけがありがたいことに次から次へと届けられるわけなので、かろうじて代替となるそうめんが大活躍するという次第でこれはまことに皮肉な状況であった。しかし常につきまとうのが、「普通にそうめんが食べたい」というもの。

しかし考えてみると武骨氏は、これをどうせよという意図だったのだろうか。つゆならサンパウロで手に入るっしょみたいな感覚か。はたまた味噌汁とわかめでこれだけ世話してやってるんだから、あとは自助努力でしょ、みたいな。繰り返すが、実にありがたいと思っている。ありがたいのだけれど、「みそ、わかめ、そうめん」という組み合わせは、つくづくシュールだとも思う(笑)だから、突き放されたみたいなそうめんの居所がここ数日ふわふわしていたのは確かだ。

そんななか、本日お会いした日本から出張のとあるお客様が、なんと創味のつゆと調味料各種をわざわざ小生のためにご持参頂いたという!まさにミッシングピースここに現れり!!!
まだ国内出張に出ている途上なのですぐには試せないが、戻り次第すぐにオーソドックスなそうめんに取り組むことは間違いない。こんなタイミングで、放り出されてすぐにアタマ撫でてもらえるみたいなことが起こるなんて。。。

外食だとついついボリューム超過になりがちなこの国で、数少ない自炊食には出来るだけ質素なものを努めて食したいと思っているこの身に、色んな形で授かるありがたい食品群。そんな中に偶然合わさった素晴らしいマッチングが、ものすごく嬉しくて、切り取ってみた。
わらしべ長者みたいなブラジルの土産食生活。
本当にありがとうございます。

2013年7月21日日曜日

初・ブラジルの床屋(Cabeleireiros=カベレイレイロス)

よく考えてみたら、海外で床屋に行くのは初めてだった。
ブラジルに住み始めて一月半、そろそろ髪の伸びが気になり始めた今週、ランチ時に同僚とフラフラしつつ食堂を探しているうちにふと雰囲気の良かったその場所を見つけて以降、土曜日になったらあそこに行こうと密かに楽しみにしていたのだった。しかし、しきたりがわからない。

いままで出張はあったけど、海外に住んだことは無いので床屋に行くような必要性は無かった。今回行く前にやたらと緊張したのもそんな訳だったからだ。そこは住んでいる場所にほど近く、店の構えは小さくなにやら雑然としており、男性用の理容室チックな比較的安めなお店だろうということはかろうじてわかる風情。

José Maria Risboaという通の名前から取って店名はJosé。実は意を決してなんだけど、さらっとした体で入ってみる(笑)。中では初老の男性と30代と思しき雰囲気のある二人の男がはさみをふるっている。待ちだ。「入っていいか?」「ちょっと待っててくれる?」みたいなやりとり。

しかしどこで待つんだろう。理容椅子は3つで客が二人だが、なぜか一番奥の椅子にはどっかとオバチャンが腰を下ろしてお菓子を食べている。このオバチャンはお店サイドの人なんでしょう。なぜお菓子?という気持ちにはふたをして、なんとも手持ち無沙汰な時間を過ごす。しかたなく二つの理髪椅子の背後にすっとおいてある病院ロビー風のベンチ椅子にすわり、正面見てると髪を切られている真っ最中の男たちと鏡越しに目が合っちゃうので、右90度の位置にあるTVで柔道の中継を眺める。

ほどなくすると若い方の従業員の客が終わり、自分を椅子に招いた。前の客が40レアルとなんぼを払っているのを確認し、やはり法外な料金ではないなと密かに安堵する。座った瞬間に「どうしたい?」と聞かれたので、「短くしたい」と答える。事前に聞いていたバリカンを意味するmaquina(なんと、『機械』という意味)という単語を使い、横と後ろはmaquinaだと。すると、3か2か?と聞かれ、わからんと答える。「ま、はじめようか」みたいな感じでmaquinaが使われ始める。まずは3からいくぞと。もっと行きたかったら2でもう一回いくから、みたいなこと言っている。

Joelという名前のその従業員は若そうだが貫禄ある髭面のイケメンで、作業もすばやく、トークもさりげない。シャンプーもないので全行程15分で修了したのだが、その間にサンパウロに住んでどれくらいか、どこに住んでいるか、会社はどこか、なんの会社か、何年いるつもりか、なぜこの店にしたのか、等々のトークに静かに花が咲いた。最後に『これからキミは僕のお客になるね!とチャーミングな笑顔で』言われ、思わず惚れてまいそうになる。$45レアル(=2,300円くらい)で、仕上がり好きな感じ。良い出会いがありました。
José Cabeleireilos
R. José Maria Lisboa, 670 São Paulo
一番右手奥白シャツがJoel


2013年7月20日土曜日

笑顔でサービス

世界で日本とブラジルくらいではなかろうか。
微笑みの国タイは、次点くらいか。
レストランや空港など、街の普通のサービスを自然な笑顔付きで得られるのは。

仕事や旅行を通してかれこれ30か国以上を巡ったが、上に書いた以外の国では笑顔など望むべくもない。というより、無愛想がスタンダードなのだと思う。だからツッケンドンにされても、もう腹は立たなくなった。

・・・というのはオオウソで、旅慣れていようがそうでなかろうが、こっちが客なのになんでそんな態度をされなきゃいかんのだとか、レジ打ちながらガムをかむなとか、カウンターのむこうでは私語をつつしみなさいとか、実に色んなことでいまだにイライラする。などというように国際化できない自分がなんとも情けないが、ニホンジン生まれだからしょうがないとも思う。

ま、もっとも、日本が異常だというのもアタマでは理解してはいるつもり。

そんな私が赴任したここブラジルは、本当に人が良くて、男も女も笑顔が自然に出る人達で、オンでもオフでも、サービス業に従事してても、みんなにこやか。だからいつも気持ちが良い。だいたいこちらの人はあいさつの後にちょっとした話をするのが普通で、それが無理ない感じでとても自然。チップも要らない文化だから、それを見越した不自然にスマイル大盛りな妙な対応とか過剰サービスに出くわすこともない。

日本人移民が定着した背景にも、食分化が似ているということに加えて、こうした笑顔の要素も少し含まれているのかなとも思ったりする次第。

2013年7月14日日曜日

入院を通して考えたこと

■血尿と腎結石
前回71日の更新を最後に、ブログの投稿が出来ませんでした。それは73日に血尿が出て、4日には腎結石とわかり入院して手術していたからです。手術と言っても開腹手術ではなく内視鏡で行う石の破砕術でしたのでシンプルなものでした。ですが全身麻酔でしたので、実に30年前、7歳の時に鼠径ヘルニアの手術で一度経験して以来の出来事を、サンパウロ赴任後1か月で体験したのでした。

術後一週間経過の昨日7月12日(金)には、腎臓から尿道にかけて留置されていたステントが抜け、これで晴れて元通りの身体となったので、今日土曜日はサンパウロ市民の憩いの場Parque do Ibirapueraに走りに行ってきました。本当に久しぶりの、すがすがしい週末を過ごしています。夕食にはスーパーで買い出しをしてトマトソースのパスタを作ってルームメイトと一緒に食べました。彼はそれと聞いてワインを買ってきてくれて、「おいしい」と言って食べてくれましたがはてさて味は大丈夫だったのだろうか。。。(笑)

■周りのサポート
今回のことを通して、職場の皆さんの多大なるご協力を頂きました。家族が来る12月までは独身なので、上司の奥様には栄養のことを心配して食事を運んで頂いたりしました。診療を受ける際には、同僚にポルトガル語の通訳をしてもらいました。それも一度でなく、何度も病院に同行してもらってのことです。本当にありがたいことでした。もし将来我々のサンパウロ事務所が拡大して多くの若いヤツらが赴任してくるようになって同様のことが起こったら、必ず彼らにこの恩返しをしたいと思います。もちろん、そのときまでに僕がポルトガル語をマスターしていることが条件です。

ところで今回入院した病院は、上司の配慮でサンパウロで一二を争う上等で高級な病院こと”Hospital Sírio Libanês”というところで、なんでも2009年にガンを患った現大統領のジウマ・ルセフ女史もこの病院に入院したとか、前大統領のルーラ氏も咽頭ガンで入院したなどとという、実に由緒正しき病院に入れてもらったのでした。名前の由来はシリア・レバノン系移民の手によって設立された病院とのことで、日本以外の国ではよくあることですが、医療はお金をかけただけ良いレベルのサービスを受けられるというアレです。当方の費用は保険でカバーされていたので、かように良き病院に入ることが出来たという訳ですから、この点も会社の制度に感謝です。

さて症状が出てからの話ですが、最初のスクリーニングを終え、総括しに来た一般医から『ということで、検査の結果、腎臓にある石が犯人と思われますんで、街の泌尿器科で更に専門的な診断を受けてください』と言われて、いったんはそこでおしまいになりそうになりました。しかし問題を先延ばしにしてこれ以上時間をかけたくなかったので、今すぐ専門医と話がしたいと申し出て、その病院の専門医を呼んでもらうことになったのでした。すると一般医氏、すぐに懐から出した病院内携帯で専門家と話し、彼が15分で来てくれるということになりました。泌尿器科医はポルトガル語でurologista「ウロロジスタ」といい、本当に15分後に『私がそのウロロジスタです』といって現れたのが白衣ではなくセーターにスラックス姿の御齢70手前かと思しき好々爺だったときには思わずのけぞりそうになりました。まさかあなた執刀しませんよね、みたいな・・・。

Dr. Jamil Chade, urologista at his clinic Centro Médico Chade
■高名なドクター
Dr. Jamil ChadeDr. ジャミウ・シャージ)というお名前は忘れません。実はその好々爺の彼こそがサンパウロ泌尿器科業界を代表するビッグ・ネーム(協会長をやっていたりする)であり、彼の個人クリニックにはいまだに患者があふれかえる、そんな売れっ子ドクターだったのです。ですが施術前はそんなこたぁわかりっこない訳ですから、ひたすらにビビりました。じぃさん、手が震えてレーザーで違う臓器を傷つけてしまうのではとか、内視鏡ビジョンちゃんと見えるのかとか、いろんなことを思いましたが今思うと杞憂以外のナニモノでもなかったということになります。

その後、CTスキャンで造影剤を投与されながらさらなる検査を受け、すぐに手術という段取りになりました。その段取りの速さも、やはり凄腕のジャミウだからこそのスピード感だったのかと頷ける次第です。院内の至るところに笑顔でナシをつけて段取っちゃうあたり、チャーミングなジャミウならではの芸当の様な気がします。もっとも僕の支払い手段が保健機関のフルカバーだということを知ってのことかもしれませんが、それこそ邪推というものでしょう。

術後、一週間の経過観察を経て病院の道を挟んで向かいにあるジャミウの個人クリニックへ向かいました。ステントを抜くためです。痛いのか痛くないのか全く説明がなかったので、その一週間はたいそう心配したものでしたが、あまりにアッサリと抜けたので拍子抜けとハッピーとないまぜになっているそんな表情の僕に向かって、『先日採った石の成分を分析して、今後のあなたの食事制限の方針を決めましょう』と語るジャミウの姿は、今までで一番頼もしく感じたのでした。センセイ、ついていきますっ!

■健康であることの意味
今回のことは、僕にとって大きなインパクトをもたらしました。いままで入院などしたことがなかったからです。健康という担保が損なわれると、自分がとたんにサラリーマンとしてもしくは一家の大黒柱としてえらく頼りないものになってしまう、そんな体験をしたのは大きな意味を持ちました。結石の原因は、おそらく20代後半からいままでにかけての10年弱、東京本社勤務という環境下で、とにかく奔放にやりたいようにやってきた食事と、とにかく運動してこなかったことが全て形になって表れたものだと受け止めています。これが石で良かったと思います。娘は3歳半、息子は6か月と、まだまだパパがんばらねばなりません。今回、離れた土地で健康を損なって家族に心配をかけてしまったので、これからは食事内容を一気に切り替えて、適度な運動をし、身体の中身をそっくり変えていく、そんなふうに決意しました。今回このタイミングで啓示が得られたのは、ほんとうに幸運でした。節制をがんばります。メールで欠席しますと書こうとすると、『結石します』と変換されるうちは、少なくともこの決意は消えないと思います。

2013年6月30日日曜日

絶品アイスとオスカル・フレイリ通り(Rua Oscar Freire)

同僚のブラジル人社員(生粋のパウリスターノ・・・単なるパウリスタつまりサンパウロ州出身ではなく、サンパウロ市内の出身者)に連れて行ってもらい、東京からの出張者と共に市内随一の高級ショッピング街・オスカル・フレイリ通りを歩く。この日は4日続いた雨が上がって久々の良い天気。街歩きのテンションも自ずと上がる。
















ここは日本でいうところの表参道と自由が丘を足して二で割ったような、そんなたたずまい。高級ブランドやスポーツブランドのアパレル店、セレクトショップなどが居並ぶショッピングストリートで、そうはいっても建物の高さが低いので通りとしての調和感がある。

街を歩く人も、点在するカフェのオープンテラスの最前線に陣取る若夫婦なんかも、皆オシャレで雰囲気がある。フェラーリやシトロエンのレトロカーなんかも路駐してあったりする。


















そんなOscar Freireで、同僚が大好きなお店だと紹介してくれたのが、"Bacio di Latte"というジェラート屋さん。























店内から外に至るまで行列、店の外で座り食べ、立ち食べをする人が埋め尽くしており、遠目で見るとここだけ異様な人だかり。






















入口から店内を撮影。奥左手にガラスケースがある。
白を基調としてナチュラルカラーを使った内装は、素材のピュアさを想起させ、商品とマッチ。

















店内右手の陶器製ミルクジャーたち。

















奥でチケットを買い、カウンターの向こう側に居る店員さんにそれを渡しつつ2種類 or 3種類のフレーバーを伝える。

店一番奥にあるトイレまでオシャレ

















オーダーする人でごった返す店内。
とここまで書いてわかったのだが、商品の写真を撮るのを忘れていた。
あまりのおいしさに、撮るのを忘れて食ってしまった。

僕はミルククリーム、ピスタチオ、コートジボワール産カカオを選択したのだが、いずれも素晴らしい濃厚さで甘すぎず、行列の訳が分かった。価格は大(Grande)でR$12.00(600円)だが、3つのフレーバーを選べるので大満足。一番安いPequenoでR$8.00(400円)、2フレーバー。
サンパウロに来たら、ぜひとも足を運びたいお店である。4店舗あるようだ。
http://www.baciodilatte.com.br/

というわけで、Oscar Freireの雰囲気と、感動のアイスを、写真ナシでおすそわけ(笑)

brasileiras bonitas #2e3 今日のブラジル美人#2&3

お待たせしました。#2と#3が一緒に撮れました。サンパウロ市内のモルンビーショッピングというショッピングモールで見かけたモデル級の美女を二人ゲットしました。現物で見るともっとスゴイです。さすがにかなりレベルが高かったので、話しかけるのにヘンな汗をかきましたが、笑顔で対応してくれました。


左はMelissa、右は名前をよくヒアリングできず(涙)。
もちろんキンチョーしていたので、年齢も聞き出せず。
Melissaは杏ちゃんみたいな雰囲気で、脚はこの写真の感じより2倍くらい長いです。
写真右手のブロンドさんは、終始笑顔で話を聞いてくれ、ゆとりのある大人の女性といった感じで、落ち着いた装いの感じととてもマッチしていました。


 モールのフードコートで、一際異彩を放つおふたり、受けてくれてありがとう。


いやはやブラジルはスゴイ。

2013年6月28日金曜日

デモと『あなたが払いたいだけ払って下さい』

同僚の女性に教えてもらったのですが、São PauloのBrigadeiroという地下鉄の駅ホームに、こーんな自販機があって、書いてあるのは「支払ってください あなたが価値があると思う分だけ」とあります。

本の自販機なのだそうです。価格はあなたが決めるという。なんというか、この話だけ聞くと、すんごい文化大国の匂いがしますね。こういうジャンルについては、モラルが高い国なんだなと。こんな側面も、ブラジルありのままを伝える為に必要なことだと思い書いてます。

ところでデモですが、その後どうなったのでしょうか。
先週の金曜日6/21は、デモ隊に包囲されたサンパウロGuarulhos空港が警備の為に封鎖となり、17:20に国内便で到着して、タクシーで脱出できたのは01:00だったという一幕がありました。これにはえらい難儀しましたが、その金曜日が一番の盛り上がりを見せて、そのあとはサンパウロ雨が降ったこともあり、大規模なデモは行われませんでした。

大統領が発表した、『バスと地下鉄の値上げはやめる、デモの代表者と話をする用意がある』というアナウンスメントで鎮静化したのでしょうか。リオデジャネイロなどでは、まだまだ多くの市民が参加して、破壊や暴力を伴うムーヴメントが続いているようですが、サンパウロでは一旦休止状態が続いている様です。

いずせにせよ、R$3.2に値上げされていた地下鉄の価格はR$3.0に戻っていました。なんとまぁあっさりと戻したもんです!ちゃんと各駅の掲示板の表示が戻されていることにも驚きましたが。このあたりは、来年に予定されている総選挙をにらんだ攻防と目されています。市民側はここぞとばかりに今このタイミングでの抗議実行をし、政府側はシャンシャン解決を望む。はてさて世界中の耳目を集めやすい6/30のコンフェデ決勝の日に市民はいかなる蜂起を見せるのか、注目されるところです。

(参考写真)
6/21サンパウロGuarulhos空港でカンヅメされていた人々の様子。
一見関係なさそうに見えるFrango Assadoのプラスチックコップは、こりゃしばらく脱出できないわと諦めて瓶ビールで酒盛りしていた我々に対して、もし暴徒が乱入してきたら武器になるようなものは撤収せよとの命令が出たのでしょうか、瓶が回収され、このプラスチックコップに移し替えられたというシロモノ。そういう指令の伝達の速さは、この国ならではと思います。