2014年12月26日金曜日

捨てる神あれば…

まったく人生というやつは、なんというか、捨てたもんじゃないとつくづく思う。

自分で取りに行かなきゃそもそも取れない果実はわりと多くて、すると多分気づかぬうちに幾つかは通り過ぎてしまってることも少なくないはずで、ときどきそのことにウンザリしたりもするけれど、そんな中でもそれでいて感動的なこともあったりして、冒頭の捨てたもんじゃないという感想に辿り着くのである。

休暇でハワイに旅行中、娘が靴を履いていないこと気が付いたのは、夕食を終え宿泊先のホテルに戻ってすぐのことだった。夕食の後半から目がトロンとしてきた彼女、ついに終了を待たずにダウン、帰りは母親父親交互に抱っこされての御帰還となった流れだった。

そもそもこの日の午前中、娘が買ってもらった靴をたいそう気に入って、その場で履いていくと言ってきかなくなった。親としては先を見越して大き目を買っているので、今すぐの用途じゃないといっても当然彼女が聞き入れるわけはなく、新しい靴をぶかぶかのままその日娘は履き続けていた。だから落下紛失は、起こるべくして起こった事故と言える。しかしこの紛失は一大事である。もし娘が翌朝起きて楽しみにしていた靴がないこと知ったら、そのショックは相当なものになるだろう。そこで、父の出番である。

まず、店に電話。受付のオネーチャンのテキトーなあしらいを受ける。そんなものは無いと。すぐにホテルを出発し、来た道を辿る。目を皿のようにして探しながら道中を歩く。無い。そのレストランが入るモールの中の管理事務所に届けを出す。残念ながらまだ該当はなく、出次第すぐに連絡をするという。非常に真摯な対応に少し救われた気がする。夕食を食べた店まで戻った。少し話した時点でこの若い受付オネーチャンは完全に信頼できないと感じ、我々を担当したウェイター氏と話したいと言って呼んでもらう。彼はすぐにもう一度テーブルの下を見てくれた。あった。片方だけあった。テーブルの下にあった。そこからどれだけ探してもらっても、もう片方は見つからなかった。担当氏とオネーチャンに礼を言って店を後にする。言いたくない相手にも、礼は言うものである。

トボトボ歩く。たとえ片方だけあっても、それはビミョーだよなぁと考えながら、ピンク色の靴を右手にブラブラ下げながら歩く。さすがに両方揃わないと、父として結果を出したことにはならない。件の管理事務所に片方の現物を見せに戻る。レストランと違って、真摯な対応だ。再訪したことにより、彼らに切羽詰まったイメージを持ってもらうことに成功した。もし見つかったなら、きっと親身になってすぐに連絡してくれるはずだ。

肝心の現物は見つからない。仕方ない、今宵の捜索は打ち切りである。最終帰路で無ければ、明日の早朝に再度捜索をかけ、その時点で断念・娘に報告することにしよう。最悪、同じ靴を買いに行くことになるのかもしれない、まあそれでも仕方ない、そう腹を決めた。

という具合にいろんなことを考えながら、ゆっくりと慎重に歩きながら、帰る。無さそうだ。気が重い。帰途も終盤、我々の投宿するホテルに連接する大手ホテルの広い駐車場兼バス停留所となるスペースに差し掛かったところで、前をゆっくりと歩く老夫婦の姿が目に留まった。不思議なことに、それまで娘の靴のことで頭が一杯に埋め尽くされていたのに関わらず、なぜか背後から見たそのご夫婦の素敵な佇まいに突然心を奪われたのだ。

杖をついたご婦人と、そのもう片方の手を繋いで歩くご主人。非常にゆっくりとした歩みだ。支え合っている。年輪を重ね、多くのことを乗り越えた熟年の極みを背中で語っている。愛とかそういうレベルではないものに迫力さえ感じる。私は歩みを緩めていた。自分がもしこの年代になったら、私のように周りを足早に通り過ぎる30代の人間は軽く映るのだろうか、それともいつか来た道と微笑ましくエールを送るだろうか、それはその時の自分の人生の充実度合いによるのだろうか、などと考えを巡らせているうちに、暫く彼らの背後をつけるような格好になっていた。

彼らは長期滞在しているのだろう、帰宅する様子の顔なじみと思しきホテル従業員と冗談を言いながら楽しそうに会話している。歩みを止めるその様は、まさに行き急がない、ゆとりの時間を楽しむそれだと見て取れた。羨ましい心の豊かさだなと思いつつ、いやいや、課題の靴問題があるのだったと切り替えて、バス停留所の横断歩道で立ち止まる彼らを抜いてスピードを上げた。

15メートルほど過ぎただろうか、ご夫婦の姿を前から見たくなり、振り返ってみた。と同時に、誰かが私を呼び止めている様な声がした。声の主は、なんとそのご主人だった。ご主人は、何かを指さしている。未だに道を渡る前のご夫婦に、横断歩道を渡り直してご対面した。ご主人は、ピンク色の靴を手にしていた。それはまさに、娘が落とした片割れに他ならなかった。発見である。ご主人が柱の陰に落ちた靴をぼんやりと眺めていたら、片手に同じ靴を手にした貴方が我々の横をちょうど通り過ぎたので、もしやと思って声をかけましたという。

ご主人はカナダ在住の78歳で、毎年クリスマスから年始にかけてこのハワイで過ごすのがここ20年来の恒例になっていて、年末には子供たち、孫たち皆集まって大家族が集合するのだという。今は勇退しているが元・競泳の国際審査員であり、横浜のパンパシ大会など含め、世界中を旅していたのだという。つまり職業柄目が良く観察眼が鋭いという訳で、ゆっくりとした移動速度と相まって靴捜索にこれ以上ない適役であったのである。

まず、問題発覚後すぐに捜索を開始したこと、レストランに片方があったこと、突然ご夫婦に興味を持ってスピードを緩めたこと、色々な場所を回って最後にちょうど柱の陰に落ちた靴を発見した直後のご主人の横を通過することになったタイミング、たまたまご夫婦側の手に片方の靴を持っていたこと、ご主人の観察力、全てが揃わなければ、この奇跡は起こらなかった。聞けば以前はなじみの同じホテルに泊まっていたが、訳あって今年からたまたまホテルを変えたというのが、どうも縁を感じてならない。お名前と宿泊先を聞き、経緯を話し、この靴が如何に大切なものだったかを説明し、感謝して別れた。帰国する前に、そのホテルにお礼のカードを届ける予定である。


ということで、まことに大げさで恐縮ながら、世の中捨てたもんじゃないのである。

2014年11月4日火曜日

プロポリスを採ろう

「ブラジルの蜂はガチで凶暴っすから、マジ気を付けて下さい」

電話口の向こうで蜂産品原料担当の後輩が僕にこうアドバイスした。
世界中の養蜂家を訪ねている後輩によると、ブラジルの蜂はとりわけ攻撃性が高く、防護服に少しでも隙間があれば必ず見つけて刺してくるとのこと。ほほぅ、それ故にブラジルのプロポリスは世界最強成分を作り出すのかと答えると、それはまた別の話です、まぁ、気を付けて行ってらっしゃいということなんだそうだ。ともあれ、これまでコーヒーやらお茶やらの産地は訪ね歩いてきた自分だが、養蜂家を訪ねるというのは人生初の経験であったから、東京に電話して産地訪問を前にしたアドバイスを乞うたというわけだった。訪ねるはミナスジェライス州の州都ベロ・オリゾンチから西に車で3時間走ったあたりである。

■ハニーハントならぬプロポリスハント
まず、防護服を身にまとう。

後輩のアドバイスによると、これはかなり重要らしいので気を付けねばならない。この収穫作業には同行しなかったプロポリスメーカーの女社長も言っていた。くれぐれも防護服を着る際のジーンズの裾は必ず靴下でカバーしてからにしなさいと。手袋と防護服の袖の関係も然り。蜂が侵入できない様にしっかりと幾重にもかぶせなさいと。私は同行しないけど、あの人(女社長のダンナ)はすぐに準備をはしょるから、くれぐれも自分でしっかりおやんなさいとのことだった。実際、ダンナ氏は恐るべき軽装で採取に臨み、最後にイテッ、イテッ、と玄人とは思えないパニック状態になって車に戻ったという逸話もついてきた。

防護服を着終わると、案内人がなにやら煙の良く出るいぐさみたいな物体に火を点けてふいご状の機材で煙をまき散らしながら先頭に立って歩き出す。それにしたがってぞろぞろと歩いて行くと、おくゆかしくたたずむ巣箱が10個ほど。見るからにヤバそうな蜂がわーんと寄って来る。顔面のプロテクターにバシバシぶつかってきて、他の産地は知らないけれど確かにこれは凶暴そうだなと感じさせる殺気を持っている。


しかしあの煙はなんの意味があるのだろうと最後まで聞くのを忘れてしまったのだけれど、厳かな雰囲気を作り出すのに一役買ってはいた。

■プロポリスとは

そもそもプロポリスっていったい何なんだ?なんでも、弊社はそのプロポリスのカタマリをブラジルから仕入れ、健康食品メーカーに卸しているようだ。その原料採取の現場を今回視察する機会に恵まれたのだ。


この巣箱中央部(白手袋の指先)に作られたスリットの内部に出来ている緑色の粘土的なもの、これがプロポリスだ。


この様にしてナイフで削り出し、ビローンと採取する、これがプロポリスの原塊。感触は『少し乾いた粘土』とか、『厚みのないカレールー』とでも表現しようか、とにかくかつて見たことのない物体である。匂いはあからさまにあのプロポリス臭がする。こうして養蜂家はプロポリスを収穫し、エキスメーカーの工場へと運ぶわけである。






■ハチミツは腐らない
そもそも蜂関連商品には、ハチミツ、ローヤルゼリー、プロポリスがある。
知らなかったのだけれど、ハチミツは腐らない食品なのだという。エジプトのピラミッドにも密壺が埋葬されているのが発見され、その成分は保ったままであったと言う。それだけ、密の糖度が高いということと、巣の内部の抗菌性が高いということが言えるのだろう。

ハチミツは働き蜂がせっせと運んだ花の蜜が糖度を上げた形で保管されているもので、巣の中の一般大衆向け食事として供されるもの。ローヤルゼリーは働き蜂が口から分泌する女王蜂専用の乳液食、そしてプロポリスは巣の入口を外敵や細菌の侵入から守るガードつまり抗菌建材であり抗菌フィルターの役目をしているのだという。

前述の如く、巣箱のスリットを開ければ巣の内部が外的要素に脅かされるため、働き蜂はせっせと入口を埋めるべく樹脂を運ぶ。その間はハチミツの貯蔵は進まない。プロポリス生産家の巣箱では、壁が仕上がる頃には採取され、またその空いた空間を埋めるべくせっせと壁が造られる、を繰り返すのであるからして、内部にハチミツは貯蔵されにくいのだという。ということで、養蜂家によってプロポリスメインのところと、ハチミツ狙いのところ、はたまた手間のかかるロイヤルゼリー狙いという風に、何を目指すかでポリシーがハッキリ分かれるのだという。これまた知らなかった。巣箱を開ければ全部一緒に詰まっているものなのだと安易に考えていたものだ。

■ブラジルのプロポリス成分は世界最強
ミナスジェライス州に自生する植物「アレクリン」。ミナスジェライス州の中でも限られたエリアにしか自生しない植物、「アレクリン」。
これこそが、ブラジルのプロポリスを世界最強たらしめている主役である。ローズマリーに似たこの植物の、葉の先から分泌される樹液に抗菌・抗酸化・抗炎症機能が含まれている。この樹液を働き蜂が集め、唾液と共に巣箱の壁に塗り固めていく、これがプロポリス。とりわけブラジルミナスジェライス州産のプロポリスは、その有効成分の高さから「グリーン・プロポリス」として世界最高値で取引されているのだという。

しかしこの植物、そんなにスゴイらしいのに、たたずまいは驚くほど地味だった。

■みつばちの神秘とブラジルの農業
今回、うっそうと茂るユーカリの木立の中を防護服に蜜を包みふいごの煙と共に分け入って巣箱を目の当たりにして、なんと原始的なことかと驚いた。ブラジルという国は、農業先進国であって、如何に工業的な農業を推進するかに血道を上げている国なのに、ここにはこんなにマニュアルな収穫絵図が残されていたとは。そしてそのマニュアル収穫を可能たらしめるものづくりの製造工程は、なんと無数の蜂に支えられているのだという。

みつばちというものは、つくづく神秘的だ。植物の葉にうっすらと浮かび上がる樹液からプロポリスという個体を紡ぎだす膨大成る作業量。そしてその場で少し拝借した、まるかじりハチミツの美味しさ。それぞれの成果物の成分の完璧さ・・・。まさに神の所業ともいうべきその仕事を、統率のとれた組織で取り組む姿。かような農業大国の片隅で、意外にも人知を超えた存在に触れた気がしたのである。


2014年10月31日金曜日

インフレの国

赴任開始してから、変だなぁと感じ続けたことがある。
それはこの国のインフレである。

本日1031日、日本では日銀総裁の黒田東彦さんが追加緩和を発表し、円安が進行し日経平均も6年ぶりの上げ幅を記録した。常に思う。黒田さんの立ち居振る舞いは、説明は自らの言葉で透明性高く、取るべきリスクは取るという点で男気を感じさせ、国のエリートかくあるべしと見ていて嬉しく思う。このように、日本では物価をたかだか2%上げる為に、頭脳総動員で様々な手を尽くしている。

ブラジルはどうだ。物価上昇率は6.75%を記録し、一昨日のCOPOM(金融政策決定会合)でSELIC(政策金利)を11%から11.25%に上げることを決めたばかりだ。

このように天と地ほどの違いがある二つの国に住んだ経験から紡ぎ出たのは、デフレを加速させた一番の犯人は、難しい金融政策ではなく、「競争」と「日本人のメンタリティ」の存在ではないのか?という疑問である。

■悪気もなく、実にしれっと
ブラジルでは、至る所で『値上げ』が実にしれっと行われる。
我々日本人は、「これこれこういう状況で、度重なる企業努力の結果何度も価格据え置きを実現して来たのだが、さすがにかかる外部環境の急激な変化にはとうてい太刀打ちできるものではなく云々かんぬん・・・」という儀式がなければ値上げなんてものはまかりならんというメンタリティを持っている。

しかしこの国では値上げに理由は不要である。だからニホンジンは、その彼らの態度を消化するのに毎度時間がかかるのである。なんでそんなに値が上がるのか、なんで彼らは平気な顔でしれっとそれを実現できるのかと。そんなもん、ニッポンでは通用しないんだゾと。

直近10か月で、ミネラルウォーター(20リットル入り宅配)の価格はR$11からR$14へと27%上昇し、理髪店の価格はR$4050へと25%上昇した。娘の幼稚園のバス代はほぼ自動的に9%上がった。

■インフレというもの
ブラジルのここ5年間の物価上昇率は、年率4~7%のレンジで推移している。だからといって、冒頭の様な値上げをはいそうですかと受け入れるのは、世界でも稀なデフレの国から来たウラシマであった私には、赴任当初到底難しいことであった。だがこの国で生活していろいろな違和感を感じながら物事を眺めているうちに、なんとなく道理がわかってきたような気がしつつある。

そもそもインフレはなぜ起きるのか?たしか大学時代の一般教養科目・マクロ経済学でだいぶ昔に学んだ様な気がする(笑)。旺盛な需要が主導するデマンドプル型と、例えば輸入品の価格上昇などが引き起こすコストプッシュ型とに分かれると確かあった。ブラジルではここ数年後者のケースはさほど見られないので、前者が引き起こしていると判断してよいのだろう。

ブラジルに暮らしたことがある人は、「ブラジルは物価が高い国だ」と口々に言う。そしてブラジルに暮らしたことが無い人は、「え?そうなんですか?全然そういうイメージが無いんですけど」という。誤解を恐れずにざっくりで価格レベルをここに示すとすると、スーパーで売られている食材などは日本と同じレベル、少し加工された日曜品例えば紙製品、シャンプー、衣服、キッチン用品などは日本の23倍くらいの価格イメージだ。自動車は日本の2倍、レストランは日本の2倍、ビッグマックは単品でおよそ650円相当だ。そう、実感として想像より高いのである。

■少ない競争
ブラジルではそこかしこで競争が少ない。これが物事を理解する上で大切なキーになる。需要が旺盛と言うよりは、供給がより制限されていると表現した方が適切だろう。だから相対的に需要が常に高い状態となり、モノの値段が上がると理解できる。

では何故競争が少ないのか。関税と非関税障壁とで国内産業を守っているからである。エネルギー資源や食糧資源を輸出するのは国策で奨励の方針だが、逆にモノを輸入するのは難しい制度になっている。また、他の国に比べて新規参入がしにくい法規制が多くあり、税制度などが複雑かつ更新が頻繁で、企業にとっては非営業部門にかける費用が非常に高くなり、いわゆるブラジルコストと言われる部分がかさむ構造がある。故に多くの分野でトップシェア企業のさらなる寡占化が進み易い環境がある(ビール、スナック菓子、食肉分野など)。規模を大きくすれば職能部門を効率化出来るメリットがあり、それが企業買収を加速させている面は否定できないと思われる。

■メンタリティ
最後にメンタリティだ。
そもそも我々日本人には、値上げ=悪という考え方があるように思う。それはこの国で値上げに直面するたびにムカッと来る自分のネイチャーに気が付いたから、実感としてある。だから、消費者の立場であれば「あり得ない、そんな姿勢だったらもうあそこからは買わないよ」となり、逆に企業側の立場であれば「値上げはさすがにまずいよなー、お客さん離れちゃうなー」となる。

ここで、前段の競争の多寡が問題となる。日本では、競争が激しく、値上げしたら消費者が乗り換えていく先の他のサービス提供者がいる。ブラジルではそれが少ない。だからブラジルではしれっと値上げが悪びれずに行われ、日本では据え置きが敢行されるという構図と理解できる。。。

でも、本当に顧客は離れていくのか?ひょっとして日本人特有のメンタリティが先回りして、すべきであった値上げも打ち消してしまってはいないだろうか。

企業では、担当者が値上げを提案するのは難しい。そんなことして顧客が離れたらどうする、と上司に言われてそれに抗弁するロジックを持つ人はそういないだろう。その上司も、さらに上に対して、値上げの結果売り上げが落ちた場合責任を取りますとリスクテイクしないだろう。となるとスパイラルが発生して値上げの芽は未然に摘まれる。こんな例は単純化しすぎだとは思うけれど、こうしたケースが日本のそこかしこで起こり、かくしてデフレスパイラルが示現したのではないかとも思うのだ。

ブラジルの姿勢を目の当たりにすると、「自己犠牲」や「自助努力」にまみれた日本の産業界が不憫でならない。

昨年来、黒田さんのインフレターゲット2%という明確な目標が世論に広まったということは、副次的に現場の担当者が値上げ稟議を持ち上げるのを後押しすることになるのかもしれない。そうすれば、企業もより健全な売上を回復できるのではないか期待するのである。


ことは単純ではない。ブラジルも国際的な競争力は無く、2億人の内需主導だからできることだという議論は勿論ある。でもそれよりも、日本人のメンタリティの部分で、本来すべきことが出来ていない機会があるならば、それは救済されなければならないと切に思うのである。

2014年10月9日木曜日

人生のかたち

ブラジルはマットグロッソ州、国道沿いの食堂の外で午後3時半、ロングドライブの休憩どき、相棒がタバコを吸い終わるのを待ちつつ漫然と立ち居ると、仕事を終えたオバチャンが出て来た。歩く先にはバイクで待ち受けるオジサンが居て、彼女の分のヘルメットを手渡し、さあ家に帰ろうという何気ない日常の光景が目に入った。これがこの後に繋がる思索の引き金を引いた。


マットグロッソ州は、広大なだけでなくとてつもなくフラットな平地ばかりであるからして、穀物の大規模栽培を可能たらしめ、この20年の間に「平地以外なにもない場所」を、ブラジルを代表する穀倉地帯に仕立て上げた奇跡の地である。
綿実(コットンシード)倉庫から臨む、収穫後の綿花畑と綿花蔵置場







































そしてこの穀倉地帯にはいま、億万長者が無数に存在する。とうもろこし、大豆、さとうきび、綿花・・・。地理の教科書で見覚えのあるような作物たちだが、これらを何千ヘクタールという大農場で栽培・収穫し販売することで莫大な利益を積み重ね、数年ごとに訪れる市況の綾を経験しつつも、20年の間に資産を蓄え一財を成した者達である。一方で冒頭のドライブイン夫婦も、マットグロッソの住人だ。この地に暮らす人々の人生は、どのようなものなのだろう。

もともと何もない土地で一旗揚げようとこの地に移住し、当時最新鋭の機械に対して高額な初期投資を投げ打っていまの成功を得た。ここまで必死に走り続けてきた。きっと色んなドラマがあったはずだ。

サンパウロ州・パラナ州・ミナスジェライス州など日本人移民も多く暮らす伝統的穀物生産地帯と違って、マットグロッソ州は新興生産地帯であるので農地は最初から人手に頼らない効率設計になっている。よって億万長者の大農場は、そこで働く人間の数が極めて少ない。

最初から何もないし、人も居らず、あるのは土地だけだった。その中で成功し、いまうなるほどカネを持つ。だが本拠地のマットグロッソには都会的な刺激が少ない。ある者はヘリを所有し、大都市を行き来しているというが、それとて毎日という訳にはいくまい。

天候のいたずらや投機筋に翻弄される市況を眺めてのハッスルには事欠かないだろう。しかし子息たちは都会を目指して出ていくケースが多い様だ。苦節20年での大成功は、ビジネスマン冥利に尽きるといったところだろうが、あまりに人との接点が少ないが故に空虚な感じにはなりはしまいかと実に余計なお世話な考えが浮上してきた。僕自身この大農園主の暮らしが出来るかというと、例えカネがあったとしてもそうは思わないだろうと。

一方で、冒頭の仲睦まじい壮年夫婦もそれぞれの人生ドラマがあるに違いない。彼らの今あるマットグロッソでの暮らしは、紆余曲折があっての結果かもしれない。我々はフェイスブックで日常の一喜一憂をアップしたりしているが、本当に深刻な事や重大なことどもは挙げられないことを知っている。表層だけの人生ショーウィンドウ、それがフェイスブックの正体だと思う。だからといってフェイスブックを否定するものではなく、それぞれの人のドラマなんて、結局はその人本人の中やごく限られた家族にしか伝えられないことだと思っている。普通の市井の人々と億万長者との人生、どちらがどう良いのかは、結局のところ本人にしかわからないのだと思う。

元々人生の評価なんてものは、人がするものではなくて自分がするものだ。

自分は田舎育ちなので都会的刺激は無用とする人物であると思っていたが、実はそうではないらしいことが今回の旅で浮き上がってきた。どうやら自分は、多くの人との関わりの中で存在する暮らしが好きであるようだ。そうすると、海外勤務でありながら家族と同居し、多くの同僚との接点に恵まれながら農作物のトレーディングや食をキーワードとしたバリューチェーンの構築に勤しむ今の形は、実はベストなんだろうなと今さらながらの確認作業が始まっていた。レンタカーを何百キロと運転しながらふと、時に煩わしいと感じている調整ごとなんかも、そう考えると実はいつくしむべき作業なんじゃないかとも、気が付くと思い始めていた。

翻って、そもそも人はどんな人生を歩むのがベストなのだろうかとよく考えることがある。自分の子供達になにを伝えて行こうかと思う時に、この問いに立ち返る。このとき、あえて「幸せ」という言葉は使わない。きっと人の人生、所詮は禍福はあざなえる縄のごとしなのだろうから、幸せだけを追い求めることが詮無いことだと思うから。だから議論は、何が「ベスト」かということに絞ることにしている。

答えはつまり、自分に合った人生を過ごすのがベストなのだろうということに行きつく。
ではどうやったら自分に合った人生を選択できるか。それは自分の好みを把握出来ていること、また把握した後に、それを可能たらしめる力を持っていることに他ならないと思う。結局自分の好みなんか最後までわからないものかもしれないけれど、だいたい外れてはいないだろう大まかなところを把握するため自問自答する力を、子供達には備えていてほしい。自分の人生を振り返ってみて、最終的には自己満足が出来るオトナになっていてほしい。


ブラジルの広大な自然は、広大すぎて眺めているとときにやりきれなくなる。自分があまりに小さい存在に感じられるからだ。長い移動時間の中でそのうんざり感を何度も反芻することで、自分なりの人生観の確認作業をした。地平線まで延々と続く単一作物の農地、その中のそこかしこで発生しているミニ竜巻、うんざりするほど長く続く一本道、およそ人知の及ぶ範囲の代物ではないレベルの無数さで収穫後の綿花がロールされて転々と蔵置されている絵。。。ここマットグロッソでは輝く農資源と効率経営、成功した農園主と一般市井の人々、それらが混然一体となって一種独特のオーラを出しており、それが旅行者自らの人生を省みさせるトリガーとなっていたりするのである。

2014年9月19日金曜日

研ぎ澄まされる人々

サンパウロ被害速報、なるものがある。
領事館から、在留登録している邦人に流される、emailベースの日本人被害速報である。

スリ、置き引き、車乗車中の拳銃強盗、空き巣など、実に多岐に亘る被害事例が、多い月では毎週、均すとだいたい隔週一回のペースで流れてくることになる。時間や場所は、明るい時暗い時、人気の多い少ないに限らず、至る所で発生しており、そのバリエーションは豊かだ。

この都市サンパウロで被害に遭う遭わないは、ハッキリ言って時の運だと思う。だからいつなんどき賊に遭遇しても最小限の被害で済むように、なるべく丸腰で移動することを心がけているし、来訪者にもそう呼びかけている。ただし1万円相当の現金は常に保有して、すぐに出せる場所に持つようにしている。このあたりの賊は金銭目当てであり、命を取るものではないからだ。逆に金を持っていないとなると先方は焦り、何をしでかすかわからないというパターンだ。

日本人だけがターゲットかと言うと、地元のブラジル人も日常茶飯事的に何らかの被害に遭っている。コワモテの現地人であって例外ではなさそうだ。ひどい話では、男性の結婚指輪(よくある単なるリングで、何の石もついていない代物)まで盗られたというケースも聞いた。それを盗っていったいどんなメリットがあるというのか。相手は拳銃を持ったティーンエイジャーであることがどうやら多い様だ。また、レストラン根こそぎというケースもしばしば聞く。ガードマンを雇っていても、である。

「時の運」、そうはいっても用心するにこしたことはない。街歩きの仕方を心得ておく必要がある。この街の人々はその点実に研ぎ澄まされている。赴任して感心したのは、次に挙げるような点で、現地の人々は実に用心深い。

・持ち物
カバンなどは基本持たない。持ったとしてもリュックを多用。
人込みではそのリュックを背中ではなく腹に抱えるなどしている人もある。

・「ながら」をしない
スマホ操作しながら歩く人は非常に少ない。盗られるからだ。
通話をしている人はしばしば目にするが、それも最小限に済ませている様に見受けられる。イヤホンで何かを聞きながら歩いている人も少ない様に思う。防犯センサーが低下するからだろう。

・歩くスピード
特に一人の時は、男も女もさっさと歩く。のろのろ歩いていては、賊の格好の餌食だ。

・視野
街を歩いているとき、彼らの視野は広い。常に背後に気が配られている。私などジョギングしながら歩道で前の歩行者を追い抜こうとすると、足音もしくは息遣いからか510m手前で必ず振り向かれる。日本では恐らくこういうことは無いはずだ。

以上は街歩きに関してのことであるが、車の運転でも同様のことが言えると思う。
道路に空いた穴、突然の車線変更、あいたままのマンホールのふた、大きな交差点なのに消えている信号、予告なく閉鎖されている道路、可動式の中央分離帯(渋滞緩和の為に往路と復路の車線数を調整する、しかも手動)等の障害に対応すべく、サンパウロのドライバーたちは常に研ぎ澄まされることを要求される。後ろから追突されたなら、賊に囲まれる危険性を察知してその場をすぐに立ち去らねばならないなど、実に豊かな想像力が要求される。もしそれらを怠ったら、「なんで気を付けていなかったのか?」と言われるのがオチだ。

翻って日本はどうだろう。そうした自己防衛意識を全て国や自治体や警察に任せ、もし不備があったらクレームをする。私が被害を被ったのはそっちのせいだと。なんでこんな大きな穴を放置していたのかと。裏を返せば彼らは悪い様にはしないはずとたかをくくっているのだ。だから正面に気を付けないで漫然と運転をしてしまうのだ。日本に居ると、こうした自己防衛センスが劣化する。果たして人としてまっとうな感覚を持っていると言えるのは、いったいどちらの市民なのだろう。

ブラジルのワイルドさや雑さに文句を言ったり愛想を尽かしたりするのがひと段落したら、こんな考え方が浮上して来た今日この頃なのである。

2014年8月23日土曜日

犬の散歩屋

サンパウロに10年近く駐在している弊社の人間によると、「この10年間で、サンパウロの犬の散歩は10倍増えた」という。この談話の信憑性はさておき、ここサンパウロはペットブームであることは恐らく間違いが無さそうである。実際、サンパウロの街を歩く際には犬の糞に最大限の注意を払わねばならないという現実がある。

さて下の写真である。これは単なる犬の散歩風景ではない。




















富裕層が雇う、犬の散歩屋である。小生の経験では、最多で8匹近い小型犬を一度に散歩させていたシーンに出くわしたことがある。写真でエンジ色のキャップをかぶる男性の前を歩くピンクの女性は、エンジ氏の娘さんであろう小学生くらいの女の子であった。つまり、家族総出で父親の稼業を手伝っているの図なのだ。

そもそも犬の散歩を人に任せて飼っている意味があるのかと、愛犬家から憤りの声が聞こえてきそうだが、それがサンパウロスタイルなのだ。もちろん全部が全部ではないだろう。自分で自分の愛犬をゆったり散歩させている人の数も、もちろんかなり多い。でもそれに肉薄するくらいに、散歩屋稼業は大繁盛である。都市部ならではの時間を金で買う価値観が、ここにはある。

幼い子供をBabáといわれるベビーシッターに預けて共働きと言うスタイルも多い。この国の幼稚園や小学校は半日スタイルがポピュラーであるから、そうした仕組みがどうしても必要になる訳だ。リッチであれば子育て以外の家事全般をこなす常駐の家政婦も、別途雇う。平日のスーパーにはそうした家政婦が代理で買い物をしている光景を良く目にする。

一方で市民の憩いの場、イビラプエラ公園では、こんな光景にかなりの頻度で出くわす。


 
















犬と一緒にジョギングである。これは犬にとっては嬉しいことこの上ないイベントだろう。

様々なライフスタイルがあって、それを支える様々な稼業がある、そんなサンパウロなのである。

2014年8月11日月曜日

ぱぱがんばって

「ぱぱがんばって」
Skypeで話していた娘がくれた、明朝に控えた9kmマラソンレースへの激励の言葉。恐らく、横で耳打ちする妻のセリフをそのまま言っただけっぽい雰囲気はあったのだが、なにしろ娘から初めてもらった励ましの言葉だ、嬉しかった。

このレースはここサンパウロではほぼ毎月の頻度で良くある草レースの、しかも9kmという短い距離のものだ。何の気なしに普通に消化しようと思っていた。冒頭の言葉は、そんな自分に火を点けた。

サラリーマンはスポーツ選手にあこがれる。誰もが過去にそういう時期があったように、スポーツで周囲を驚かせ、感動させるということを現在進行形で示している彼らにあこがれる。だからこそ、土日夜のスポーツニュースを何度も見るのだ。自分自身を投影させて、時には涙ぐみながら。自分はもう、そうはなれないと思っている。

しかし娘の激励で気が付いた。対象が自分の家族限定ではあるが、自分だっていつでもヒーローになれるのではないか。自らが努力して向上している様を子供達に見せることが出来れば、何物にも代え難い教育になるのではないか。そう思い、モードを変えて走ってみようと決意した。毎朝走っている「調整」モードではなく、本気でベストタイムを目指して走ってみよう。

そうして出した自己ベスト9km 4044秒。キロ平均4分25秒。最近の自分のペースを考えると、胸を張れるレベルだ。大げさだけど、娘のことを想って、娘に捧げた走り。まだ4歳だから伝わらないけれど、この文章がいつか大きくなった彼女に届くといい。

2014年7月22日火曜日

ミスト・ケンチという食べ物

ブラジルの食文化が好きだ。
シュラスコやカイピリーニャは既に日本でも有名だが、どちらかというとパーティメシ的な位置づけで、毎日食べたり飲んだりするものではない。むしろこちらの人々のなんでもない日常食に、素晴らしいものが隠れているところがとても好きだ。

ミスト・ケンチという食べ物がある。
直訳すると意味は、ミックス・ホットで、つまりホットサンドだ。ハムとチーズをサンドイッチにして加温したものだ。反対にミスト・フリオ=ミックス・コールドもあるが、これは加温していないメニューの名前だ。これがすこぶる安くてうまい。こちらの人々が朝食を食べるパダリアと呼ばれるパン屋さんで出してくれ、だいたい400円くらいだろうか。ポンジケージョ、コシーニャと共に僕のお気に入りの一つで、良く食べている。

あんまり気に入ったので家にサンドイッシェイラというホットサンド器を導入した。シンプルな機械だが、たしか4,500円くらいしたか。ブラジルの家電は高いのである。だがこれは価値ある投資だった。


























朝ランニングした後、これを開いて食パン2枚、スライスチーズ4枚、ハム2枚を、そしてまた食パン2枚を乗せ、閉めてスイッチを入れる。シャワーを浴びる。出来上がる。









































スイッチ切る、着替える、出来上がった2個を取り出して(溶けだしたチーズなんかをほじほじしたりしてから)キッチンペーパーで包み、一つはジップロックに入れて持って行く、一つはかぶりつきながら会社に向けて歩きはじめる。食べ終わる頃にちょうど会社に着いて、残りのもう一つを席で食べる。これがまたすこぶる上手い。シャワーを浴びている間に出来上がっているという手軽さも絶妙で、しかも閉めておくだけでフツーの食パンがウソみたいにかっこよく焼けるという寸法で、これまたとても嬉しいのである。

2014年7月14日月曜日

チャンスを取りに行く

発展途上の僕のゴルフ。ブラジルで再開してそろそろ1か月が経とうとしていた今日、まるで何かに導かれるように、素晴らしい体験をさせてもらったという話。

昨日土曜日は、同じマンションの知り合いの人と二人で27ホールラウンドしたが、今日は一緒に回る人が居ないことがわかっていた。昨日掴みかかった「何か」のおさらいをしようと、朝08:00過ぎにゴルフ場に到着してからすぐに一人で練習を始めるつもりだった。キャディマスターからゴルフバッグを受け取り、脇にあるいつもの練習場に向かった。練習球を機械から出そうとしたくらいのタイミングで、一人のキャディーが僕に声をかけてきた。曰く、一緒に回る人を探している人が居て、その人も一人なのだという。二人でラウンドしてみてはどうかと。

正直見ず知らずの人と二人きりで回るには僕の腕前はまだあまりにもお粗末だし、肝心の練習もまだ一球も打っていない状況でいきなりティーショットに向かうのは甚だ憚られた。だがこれも何かの縁、怖いけど受けてみようと思い、承諾し、その人の元へ向かった。するとアプローチ練習場で淡々と綺麗で柔らかいショットを繰り返していた60代と思しき小柄の良く日焼けした日系人風の人がこちらを向いてヨロシクと挨拶をした。彼こそは、サンパウロで最も成功している日本人と言われている有名な企業経営者だった。

このゴルフクラブの会員だとは聞いていたが、まさかその方と一緒に二人で回るとは思ってもいなかった。自己紹介もそこそこに、ラウンドが始まる。自分のショットでいっぱいイッパイの僕は、正直会話どころじゃなかった訳だが、このところの練習が少し効いていたか、なんとかその方と一緒に歩きながら会話が出来る程度の場所に、都度ボールは生きていてくれた。そして従業員800名規模と言われるその企業を異国の地で切り盛りする経営者の話だ、ひとつも聞き漏らすまいと集中したし、そうしなくても引き込まれるオーラがあった。もちろんその方は余裕のパープレイである。

練習のつもりで軽くゴルフ場に来てみたら、突然エラく緊張する事態に巻き込まれてしまった訳だが、聞けばその方も今日偶然一人状態になってしまったいきさつがあった様で、どうも運命的なものを感じて嬉しくなった。そしてもう一つ嬉しかったのが、ふとした間にその方から、「君は最近の若者にしちゃ珍しく気骨のあるヤツだな」とのお言葉を頂いたことだ。もはや「若者」というカテゴリではない自分だが、まぁ、大先輩から見たら所詮は小僧なので、ありがとうございますと受け止めさせて頂いた。ゴルフ+ビッグネームというダブル緊張の中、コトバ少ななやりとりしかしていない中で、何がそう感じさせたかはわからないが、彼の様な永住組の日本人からしてみると、近頃の駐在員は線が細いやに映っている様であった。そんな中で雰囲気が少し違う人間として受け止めて頂いたみたいであるのは、素直にうれしかった。ましてや百戦錬磨の経営者のお見立てであるから尚のことである。

コース途中でカートに乗ってふらっと現れたお仲間も一名参加され、パーティは3名になった。お仲間も遊び上手な雰囲気を醸し出しており、味も深みもある60代二人に囲まれてのラウンドとなった。

人生論からゴルフ論まで、その方のトークは本当に気さくで、気が付けば僕をチャン付けで呼び、「下手くそ」とけなしつつもたまに出る良いショットにはこまめに褒め言葉をくれた。そしてなんといっても僕のプレーを良く見ていてくれていた。超上級者のその方のショットの中でも、とりわけアプローチが美しかったので、秘訣を尋ねると、「18ホール回ったあとでレッスンしてあげるよ」とのことだった。

良くも悪くも色んな収穫のあったラウンドを終えて、アプローチレッスンの施しを受けることとなった。30分ほどのレッスンは未だかつてない発見の連続であり、教えてもらった3点のコツを実践するだけで自分でも驚くほど柔らかいボールが打てるようになった。説明も至極腑に落ちる。その後、その方は別のお仲間ともう9ホール回るとのことであったが、練習セットをそのまま使って良いと言う。僕はその場に留まって、面白い様に連発出来る自分じゃないみたいなアプローチを忘れない様に必死に3時間半、借りた練習道具(綺麗なボール50個とボール集めしやすい道具達!)で練習した。今日一日で、飛躍的に進歩できたと思える。最後にラウンドを終えて戻ってきたその方は僕に名刺をくれて去っていった。上手な人達の会があるとのことで、それに声を掛けてくれるとのことだった。それはそれで気の遠くなるほどのプレッシャーで引き続き気の引き締まることだと思いつつも、今日みたいに気後れする様なお誘いが来た時こそ受けて立てば良いことがあるはずだと思い直した。偶然と挑戦が引き起こした諸々に、感謝の一日だった。

2014年6月30日月曜日

壁を乗り越えるということ

小学生のころ、初めて25mを泳げた日の達成感を今でも覚えている。自分でも不可能だと思っていたことが、ある一つのきっかけで一気に達成に結びついたあの手ごたえ感を忘れることは無い。恐らく人生で初めて困難を克服した瞬間だったのだろうと思う。というとなんだか大げさだけど、当時の自分が直面していた壁の相対的な大きさで言えば十分なものであったはずだし、たぶん、その「困難」に絶対値的な規模の大小は関係ないのだと思う。

僕の記憶は、小学校3年生で経験する転校から一気に鮮明になる。転校前の小学校1年生・2年生の記憶はモノクロで、転校以降はカラーになるくらい、変化の大きいイメージだ。転校した先の小学校では、明らかに前の学校に比較して水泳の授業がしっかりしていた。時期的に、そのころから「恥じらい」を知ったからだけなのかどうかは不明だが、記憶がカラー映像になると同時に水泳の授業が恐怖に変わったのを明確に覚えている。なにしろ泳げないのだ。しかも女の子もみんな見ているではないか。5mも泳げない自分は、あからさまに無様だ。

恥ずかしいまま3年生の1年は過ぎ、問題意識を抱えたまま4年生のプールシーズンが到来したが、泳げないままだ。どうあがいても5m手前で立ってしまう。悔しくて、ひとり図書館に通い、水泳の本を読み漁る。写真を見て、風呂で真似てみる。出来ない。研究を重ねつつも進歩が無いまま、夏休みが終わりを迎えようとしていたある日、風呂で思いついて実験をしてみた。水の中で目を空けてみたらどうだろうか、と。予想に反して、水の中で目を空けても痛くはなかった。当時水中メガネは水泳部員しかしていないもので、一般生徒の私はそれを着用するという発想も、親に買ってもらうという概念すらなかったのだ。

「水の中で目を開ける」・・・なんだそんなことかとツッコミをもらいそうだが、小学校中学年の悩みとはまさにそんなものなんじゃないだろうか。それを誰にも相談せずに、図書館でさんざんもがいた末に解決策を自分で見つけたという点が、大いなるブレイクスルーだった。周りの大人たちに相談したのかもしれないが、きっと彼らには当たり前すぎて、水の中で目を開けているのか閉じているのかなんて確認をする人が居なかったんじゃないかと思う。

夏休み明けの初プールの日、果たして僕は、クロールで25mを泳ぎ切った。目を開けながら泳ぐ世界は、それまで目をつぶって泳いでいた不安だらけの暗黒の世界とは全く別物であって、喜びに満ち溢れていた。息継ぎの問題があったが、それまで本を読んで知識の蓄えはあったので、初めてでも無理なく出来た。息継ぎについては先行してイメージトレーニングを多く積んでいたのだった。

当然の様に25m泳ぎ切る仲間たちに紛れつつ、人知れず25mを初めて泳ぎ切った私は、達成感に満ち溢れていた。周りからしてみたら大きな出来事でも何でもないことが、自分自身の中だけで、大きなフルーツとなって収穫された瞬間だった。そうか、やればできるのかと。

そしていま、壁にチャレンジしている。
ゴルフだ。

入社後3年目に当時の上司よりクラブ一式おさがりを譲り受けたときから始めたので、私のゴルフ歴は14年ほどになる。その間、一度マイブームが到来して練習を積んだ時期があり、スコアも向上したことがあったが、ここ8年ほどは年に一度の社内コンペに顔を出すか出さないかといった頻度で、練習も全く行っておらず、当然スコアも惨憺たるものであって、正直「ゴルフやります」というステイタスを取り下げようと思っていたほどであった。自分自身にセンスのかけらも感じないのだ。

はっきり言って、下手な人間にとってのゴルフほどつらいものはない。わざわざ遠くのゴルフ場まで運転手をして出かけて、同組の目上の人間と迫り来る後ろの組を気にしつつ、天文学的なスコアをカウントし、カートなどに乗れるわけもなく常に何本もクラブを持って走り回り、いつも林の中でボールを探している。くたくたに疲れ果て、ボールは無くなり、手の皮は剥け、しかも結構な金を払って、かつ帰りも運転手だ。こんな理不尽なことはないのだ。でも、ゴルフが上手い人になりたいという憧れだけは強く持っている。ゴルフが上手だと、何しろカッコイイのだ。

古いタイプと言われそうだが、ビジネスマンの読み書きそろばんに、恐らくゴルフは入るだろう。まぁ、そこまででなくとも、ゴルフは上手いに越したことはない。『あの人ゴルフが上手い』というのは、例えて言うなら『あの人の奥さん綺麗』に似たレベルの感覚があるんじゃないだろうかというのが私の持論だ。自尊心をくすぐるような感覚。そして下手な人間は、ゴルフ場に存在してはいけないってくらい、自尊心をズタズタに傷つけられるのだ。そのくせ、全然練習してないから上手くなれっこないことだって一方では強烈に理解している自分が居るから、尚のこと憤懣やるかたないのである。

ここへきてサンパウロ駐在を開始し、当地クラブの会員権を取得した。直属の上司が名手であり、お互いに家族が一時帰国するというタイミングが到来した。恐らくこの時期を逃したらまとまった時間を集中的に練習につぎ込むことのできる機会は、たぶん子供達が成人するまで二度と訪れないだろうと思われ、上司にレッスンを申込み、6月中旬から土日特訓が始まった。この2か月間の限られた期限内に、なんとか上達してみせる。

水泳の壁と同じように、きっと何かが邪魔をしていて、それを取り払えば世界が広がると信じている。まさか目を開けるなんて簡単なことだとは思わないが、いくつかの点に気が付き、それを取り除く作業をステップアップにつなげるという作業を、楽しみながら取り組みたいと思う。もし上達が叶うなら、その瞬間というのは人生に一度しか訪れないものだから。そして何かに上達するという経験も、人生の中でそうそう経験できるものではないと思うから。

「高くつくぞーこの授業料!」「お、今の悪くないゾ」とか言われながら上司と2人でワイワイ回るこのレッスンラウンドは、きっと後で思い返せば青春時代の様にきらめくワンシーンになるんじゃないかと、期待しながら毎週末を楽しみにして夜寝る前に胸を膨らませている。水泳の壁を乗り越えた子供の頃の体験があるから、大人になった今、ゴルフの壁を楽しく攻略しようと思える自分がいる。子供時代の自分の闘争心と、良き上司に恵まれたことに感謝しつつ、いま、こんな日々を過ごしている。

2014年6月6日金曜日

コパ・ムンディアル/コパ・ド・ムンド

『コパ・ムンディアル』・・・

1980年代にサッカー少年だった向きにはこの響き、憧憬と共に甦るのではないだろうか。コパ・ムンディアルとは、アディダスのサッカースパイクの商品名で当時の超高級品、カンガルー皮製で価格は2万円と、当時プーマのパラメヒコと並び称された名品である。当時履いている人間を見たことが無かった。寝る前にベッドの上でアディダス社のカタログを見ながら巻頭を飾るその写真を穴のあくほど眺め、「うぉー、履いてみてー!」とゴロゴロのた打ち回った経験をお持ちの方も少なくないだろう。当時のサッカー少年は、コパ・ムンディアルの意味やそれが何語であるかには全く頓着しなかったが、その語感は強烈にインプットされていたのであった。

そのコパ・ムンディアル/コパ・ド・ムンドつまりサッカーワールドカップが、いよいよ来週当地ブラジルで開幕しようとしている。小学校3年生から父親の影響でサッカーを始めてからサッカーは常に身近なものであり続け、社会人2年目には日韓ワールドカップがあった。そして自分がブラジルに移り住んだら一緒にW杯もついて来た(笑)。つくづくラッキーだと思う。このイベントについて、少し書いてみたい。

・お祭り騒ぎは見られない
開幕を間近に控え、サッカー大国ブラジルはさぞかし盛り上がっているでしょうと方々から質問を受けるが、答えはNOである。国民は冷めた視線をイベントの主催者であるブラジル政府に送っている状況だ。

昨年のコンフェデ杯開催時にはブラジル全国で中流層・学生を中心とした一般市民によるデモが発生し、国は大混乱に巻き込まれた訳だが、国際的に注目が集まるこの一大イベントをターゲットとして再度メッセージを発信しようとする勢力は多いと言われている。通常であれば4年に一度の国威発揚のタイミングであるこのイベント前にはブラジル国旗がいたるところに掲げられ、道行く車にも日本の正月宜しく国旗がたなびく、そんな光景が見られるはずが、今回は自国開催であるにもかかわらずそれが見られない。市井は警戒ムード一色なのである。

・誰の為のコパ?
「ブラジルに必要なのは学校・病院、そして治安改善。スタジアムは不要、いったい誰の為のコパ(ワールド杯)?」というメッセージが国民を取り巻いている。また今回のW杯とリオ五輪との開催が決まった2007年・2009年に比べると失速感が否めない現在のブラジル経済を取り巻く世相も、お祭りに浮かれてはいられないというムードを増幅している。国家経済の前途が不安な今、ゴージャスなFIFAクラスのスタジアムを大盤振る舞いで建設している傍らで学校、病院、刑務所などの社会サービス施設が大幅に不足しているのであるからして、税金の使途についての不満が高まるのも当然と言えよう。加えて、皮肉にもここ数年の低所得者層に対するバラマキ政策が功を奏した結果、中間層が増加し、この中間層が声を強めているという状況も無視できない。

ブラジル政府は大会期間中、大量の警察官を投入して治安維持に努めるとの方針を発表しているが、521日には8つの州で文民警察官の労組が待遇改善を求めてストを実施するなど足元からぐらつくまさかの事態も発生、不安要素は払しょく出来ない。ブラジル代表の活躍を一番求めているのは、そうしたアラを隠してくれる効果を期待しているブラジル政府だというのは、今や市井の一致した見方であると言えそうだ。

(シナリオB
一方で、この国の人々の動きが、もう一つの展開を見せる可能性も無くは無い。
ブラジル人は「見栄っ張り」なので、本性を隠しているだけだと。
本当はサッカーに熱狂したくてしょうがないし、ブラジルが優勝すると信じている。
でも自らを中流層と自認する人々は、社会派ぶって教育問題を語り、デモに参加し、下賤なサッカー及びW杯を否定している。
しかしひとたびブラジル代表が大躍進を始めたら、国民は大興奮に巻き込まれ、社会問題は無かったかのように一旦忘れ去られ、オリンピックでまた再燃する・・・。
そんな展開も、このブラジルなら起こりうる。

・問われる自己責任
一部の報道によると、今回のイベントで300万人の観光客の来伯が見込まれているという。大会開幕一か月を切った518日に滑り込みセーフでこけら落としを迎えたサンパウロの大会会場では、チケットと席番の不一致などという珍事が見られたという。押し寄せるゲストを捌ききる能力を受入側に期待してはいけないことは明白であり、色々な意味での『自己責任』が問われる大会になることは間違いない。トラブルに対する弁済も一切期待できない。日本からお出かけになる方には、くれぐれもそのあたりの覚悟を決めた上で、所持する携行品は最小限にして、会場を目指してもらいたいものである。


2014年5月28日水曜日

一万PV達成

昨年5月15日にこのブログを開始して、一年とちょっとが経った今日、アクセスが10,000PVを超えた。更新頻度もまばらなこのブログ、ほとんどがFacebookからの誘導で外部アクセスの少ないだろうこのブログ、よちよち歩きでここまで来ておかげさまで一万。これからも気楽に続けていきますんで皆さん宜しくお願いします。

ちなみにネタごとのアクセスランキングはと言うと、
1位. 「新ブログ開始」 みなさん原点を確認したくなるということなんでしょうか。
2位. 「ブラジルで運転免許を」 リアルで出会った人が、実は読者だったということもありました
3位. 「穴があったら・・・」 写真がインパクトありますからね
4位. brasileiros bonitos #1 今日のブラジルイケメン#1」 イケメンコーナー、続きを待っているとの声が多く寄せられています
5位. 「助け」 これはもう、胸が一杯になるのでコメントのしようがありません

てな感じでした。
個人的には「葉には葉を」が快心のタイトルでお気に入りだったのですが、あまり伸びなかったようです(涙)

2014年5月13日火曜日

黒い自転車

「それなら、あの自転車にペンキを塗ればいい」
「自転車なんて乗れさえすれば良いんだから」

というのが父の意見だった。「あの自転車」とは、車庫の奥に長いこと眠る、その昔兄が使っていたらしきものだ。股の部分に4段ギア変速機がついていて、折り畳み式のカゴが横後ろについている、一昔前のタイプの、あの自転車のことだった。

それは地元の中学校に進学して通学用の自転車が必要になったときのことだ。入学式の日からしばらくは、新入生には徒歩しか許されず、1週間ほど徒歩期間を経た後に自転車で通学を許される、確かそんなことだったと思う。猶予期間があっただけに、周囲の友達はどうやら新しい自転車を買ってもらっている様子であることは感じ取ることが出来た。僕はどうなるんだろう。4人兄弟の末っ子である僕には新車があてがわれるわけがない。そうはいっても、車庫に眠るアイツは相当に錆びている。さすがに買ってくれるかも。淡い期待は冒頭の妙案で吹き飛んだわけだ。

かつては黒だったであろう錆び錆びの茶色い自転車を、黒いペンキで豪快に塗装していく。たぶん、作業自体は楽しいものだったのだと思う。だけど気持ちは冴えなかった。父がやったのか自分も手伝ったのか今となってはもう覚えていないが、作業は進み、ほどなくして黒い自転車は再生した。僕にとっては都合の悪いことに、この自転車が普通に走れた。

いざ自転車登校が始まると、さらに具合の悪いことがわかった。友人たちのマシンは皆、一様に新しいだけでなく、形自体が違っていたのだ。シンプルなママチャリ的なヤツで、変速機は当然のごとく手元に付いている。だれもまたがって股間でカチカチなんてやらないのだ。古くて、黒くて、形がヘンな自転車。乗っていて周りの視線が痛いほど気になった。というより、勝手に自分で気にしていた。元々あったレトロなデザインがモダンな真っ黒に塗られたことによって逆にシックかつ前衛的なデザインだったのではと思うのだが、当時の僕にはそれがどうしても憂鬱だった。

いまの自分は父と同じ意見だ。「自転車なんて、乗れればいいんだから」という意見に至極賛成だ。わざわざイベントごとに新しいものを買う必要などない。両親はアンチ物質主義であり、物持ちの良いのを尊しとして育ててくれたので、おかげで良い金銭感覚が備わったと感謝している。でもあの13歳くらいの少年には、さすがにこたえた。ニキビも声変わりも一緒に来ましたよ思春期まっさかりです的な年頃に、あの黒い自転車は厳しかった。

すぐにサッカー部の先輩にイタズラされた。
練習がおわって、みんなで帰ろうとしたときにそれがわかった。

いじめというようなものではなく、ただ単に、それが「ヘンな自転車だから」なんだろう、自転車置き場に置いてあるのを上下ひっくり返されていたというもの。まぁ、子供にありがちなからかいみたいなもので、それ自体は挨拶みたいなもののはずだったし、自分もそれを「誰だよぅ」みたいなことを言いながら普通に対処するはずのものだった。

でもそれを見た途端、それまで我慢していたものが崩壊したというか、我ながら情けなくて涙が出てきた。あの「ヘンな自転車」は、暫く付き合った結果、自分自身の分身みたいな感じになっていて、ソイツがバカにされた様子を見たら、自分がその場にひっくり返されているみたいな感覚が襲ってきて、なんとも情けなくなって。父親が良かれと思ってペンキを塗ってくれたんだぞぅ、ヘンだけど、まだ普通に走るんだぞぅ、みたいなことを思うと、涙が溢れて止まらなかった。その場に居合わせたサッカー部の同級生は慰めてくれたし、イタズラして先に帰った先輩の同期生ですら、さすがにビビって「ひでぇヤツだ、気にするな」的なことを言ってくれたのを覚えている。でも家に帰っても涙が止まらなかった。

翌週、みんなと同じタイプの自転車に乗っている自分が居た。
自分がどういう風にして親に説明して新車をゲットしたのかは覚えていない。
そしてあの黒いアイツが、どう処分されたのかも、記憶が無い。


今日の仕事帰り、自転車屋の前を通りがかった瞬間に、ふとあの光景が浮かんできてこの話を突然書きたくなった次第。

2014年5月10日土曜日

もうすぐ一年

来週、一時帰国の途に就く。赴任開始が2013年6月4日だから、一周年まで一か月を切ったことになる。家族は一足先に日本へ一時帰国して、ひとりすこし落ち着いた時間が出来たいま、無性になにかを書きたくなってきた。


着任したサンパウロはとりわけ寒い冬で、街の表情も暗く、おまけにもっと寒いブラジル南部への出張も何回かあったりして、思えば全体に重いオープニングだった。ひと月でなぜか血尿が出て、腎臓結石の破砕手術をして以降、あんなものはまっぴらゴメンだと体調改善を誓って走り始め、後に15kg減を達成することになる。

7月には駐在生活最初のコーヒー収穫シーズンが到来し、日本からのゲスト受け入れに奔走し、ほぼひと月産地の中で過ごした。お世話になった農園でJapan Nightと称し日本食を振る舞うなど、我ながら必死でいじらしい感じがする思い出だ。

10月には家族が到着して、それまでとは生活リズムが一変。ランチは家に戻るし、定時18時キッカリに帰宅して、風呂・夕食・就寝を共にして落ち着くのが22:00という毎日に変わった。4歳の娘と1歳の息子は二人してあまり寝つきの良い方ではなく、深夜に積み木あそびなどの事態は、しばしば少なくない頻度で発生した。明るくて元気にあいさつが出来、思いやりがあり空気が読むのが上手でありつつシャイで新しいことに保守的な娘と、いつもニコニコ元気印、社交的で道行く人に笑顔で手を振る政治家の様な息子に囲まれて、実に怒涛の毎日が始まった。

このころ、仕事で知り合ったブラジル人の知人からよい仕事のコネを紹介してもらって、その後に大きな展開を生むことになる。この土地で感じたのは、『アミーゴのアミーゴは皆アミーゴ』ってこと。日本でも20代後半になって、とある社長から友人の社長を紹介してもらうなんてことが増えて、自分らしく振る舞えば、自然と仕事はついて来るんだなんて自信が持てたりしたけど、こちらではよりその現象が激しく起こっているような気がする。友人が僕をアミーゴに紹介する時、「紹介するよ、コイツは日本人だけど、フツーの日本人とはちょっと違うぞ」というフレーズを良く聞く。冗談をよく言うし、YES or NOをはっきり言うからそういう評価に繋がっている様だ。もっとも、一般的な日本人が得意な細かい点で緻密で正確という面が不足しているという噂もある(汗)。。。ともあれ、間違いなく自分のキャラにマッチした土地で仕事をさせてもらっていると思う。たとえ自分の仕事に繋がらなかったとしても、親身になって僕に色んな人を紹介してくれようとするブラジル人の仕事仲間たちに感謝だ。得難い、本当にありがたいことだ。

年末には以前ブログでも書いた、息子の熱性けいれん事件が発生することになる。高速道路上で突然意識を失って、右往左往していたら数分後に偶然空の救急車が通りかかって搬送してくれたという数奇な経験は、我々一家にとってたまらないインパクトを残した。当事者だった息子もさることながら、つきそいで泣きながら懸命に我々についてきた娘のガマンも、実に褒めてあげたいと思う。

仕事のことは書けないことが多いので、あまりこの場には書いてこなかったけど、社内の直接関わっていない人も含めて色んな人から「あんまり最初から飛ばして無理しすぎるなよ」的なコメントを多く頂戴しているのを見ると、どうやら相当『前がかり』に映っているらしい。なんだかシャカリキで少々かっこ悪いけど、もとより調整なんかできない性質だし、スロースタートに映るよりはましだと思っているので、このまま行こうと思う。引き続き、自分らしくやっていきたい。

ブラジルと言う国は、ただ日本から遠い位置にあるというだけで、日本人から理解されていないことが多い様に思う。世界最大の日系人コミュニティがあるとか、日本にはデカセギのブラジル人が多いとか、ワールドカップとオリンピックでアツイよねとか、そんなことくらいしかイメージが無いと思う。でももっとこの国のユニークさが理解されないともったいないと思う。人懐こいけど実は見栄っ張り、一生懸命努力するのが見え見えなアプローチよりも努力が表に見えないスマートなアプローチを好む、クレームを表だって言うことを避ける、諦め上手、信じられないくらいに物価が高く、フロリダのアウトレットやショッピングモールは買い物のブラジル人だらけ、とかとか良いところも悪いところも知られていない。人口2億人で、人口ピラミッドも健全で、日本と違って将来は明るいのだけど、それでいて国の上層部の汚職体質、社会保障やインフラ面、治安面でまだまだ問題が多いなんて点も、身近なトピックを通して新聞では伝えないナマのブラジルを書いて行けたらなと思う。ここ数か月は余裕が無くてブログ更新からも遠ざかっていたけど、一時帰国から戻ったら、また頻度上げられるかな。

写真は恥ずかしながら、自作のパンケーキ。日本時代から独自のレシピで土日の朝、不定期で家族に作っているもの。妻と娘が喜んでくれるので、パパ嬉しくてバンバン焼いて残ったら冷凍するということをやってました。自分自身はゴハン党なので、家族にこれを焼いて、自分は隣で米を食うと言うのがパターンだったけど、ひとり身初の週末である今日は、冷凍庫に残っていたこれを持ち出してコーヒーと一緒にブログ書きながらちびちびやっている。みんなで囲んだ朝食のテーブルを思い出したりして。子供に囲まれてドタバタの朝は正直カンベンしてほしいなんて思ったけど、最初に迎えた土曜日からもうすでにサウダージ。こりゃ先が思いやられます(笑)。改めて家族、会社、お客さん、仕事仲間、友人に感謝しつつ、1周年を迎えたいと思っています。

2014年3月8日土曜日

青空商人

サンパウロといえば人口11百万人の南米第一の大都市であり、弊社事務所はそのサンパウロ市街中心部にある。意外に思うのが、この都会のど真ん中で、店舗を持たずに青空でモノを販売する商人をしばしば見かけることである。

店舗を持たず一人で全てを取り仕切るそのスタイルは、見方によれば固定費をぎりぎりまでそぎ落としたスーパースリム商人とも言うべきかもしれない。我々商売人の本来の姿を見出すことが出来るかもしれず、彼らにインタビューを試みた。

・ケース1 椅子の修理屋
「ここで23年ちかく仕事してるよ」とは道端で椅子の修理屋を開くジョゼ・リマ氏。
















































59歳の彼は、マンション警備員の仕事を辞め、親戚の元で5年修行をして後に独立、36歳でここに職場を構えたという。看板には「椅子の編み込みと張り合わせします」的な文言がある。通りがかる度、一心不乱に仕事に取り組む姿が印象的であり、今回の取材に至った。
一回70~120レアル(3,100~5,300円)の売上で、月収にして1,500レアル(66,400円)程の収入があるという。椅子だけでなく色んな物の修理を依頼してくるなじみの客も多くあるらしく、どうやらよろず修理屋としての機能も果たしているようだ。無秩序に見えて凛とした佇まいの彼の商店は、都会の雑踏の中で目立ちすぎるほどの異彩を放っている。
Jardim Paulista地区)

・ケース2 花屋
「雨が降れば傘を売るさ」とは、弊社のすぐ目の前で花束を売るアントニオ・カルロス・ロドリゲス氏。









































現在63歳の彼は、24年前に花屋の商売を思いつき、当時勤めていた服飾店を辞め、現在に至るまで花商売を続けている。職場からは少し離れたサントアマロ地区に妻と二人暮らしだ。

毎朝4時に青果市場へ出向き仕入れを行い、市バスで職場へと移動。花束づくりを進め、午前10時に販売開始と言うスケジュール。営業する日とそうでない日はまちまちだそうで、週に3~4日程度、日曜日と月曜日は休む。一束20レアル(890円)で、一日平均10本、イベントごとがあれば20本売れる感覚。月収でおおよそ3,000レアル(132,800円)もの収入があるそうで、廃棄する花束を奥様に持って帰れることを鑑みると「悪くない商売」とのことである。




























雨が降れば傘を携えて渋滞中の車列に売り歩く彼の日焼けした人懐こい顔には、真のあきんどの証明としてのしわが、深く刻み込まれている。






















Jardim Paulista地区)

共に20年以上のキャリアを維持した男たちとの会話は、多くの示唆に富んだものであった。自分の仕事にもこのエッセンスを取り込もうと思った次第。

2014年2月8日土曜日

愉快なポルテイロ

マンションのセキュリティ上、この国には必ずポルテイロがいる。ポルテイロとはつまり門番で、遮光されたガラスの内側に常駐している人たちで、徒歩であっても車であっても、入出場には必ずこのポルテイロを媒介としたドアの開閉作業を経なければならない。

そのドアはだいたい二重構造になっていて、一枚あけてもらって中間地帯にまず入場、一枚目を閉じると二枚目を開けてくれて中に入れる。すべてポルテイロの手作業であるからして、実にうやうやしいというか時間がかかる。たまにポルテイロが寝ている(本人たちは否定するが)と、気が付いてもらえずにインターホンみたいなもので呼びかけなければならなくなったりして、さらに手間がかかる。

車でも住人はリモコンを持たされていて、外からリモコンを押すとポルテイロがカメラでナンバーと運転者を目視確認、手動でシャッターを開けるという流れだ。もちろんシャッターは二枚構造で、一枚目の開閉の段階で問題を認めた場合、二枚目を開けないという選択肢が残されている寸法だ。リモコンを押すと自動で開くわけではないところがミソだ。サンパウロではカージャックされた住人が銃口を向けられたまま自分のマンションの地下駐車場に誘導され、犯人が侵入、その後マンション全体が根こそぎ強盗に遭ったという事例などがあるらしく、こうしたセキュリティシステムが一般的になっているという。

家具の納入業者や引っ越し業者なども、身分証明書の提示をしてポルテイロが登録処理をする。その後、内線電話をかけて住人の入場承諾を経なければ上がれないという仕組みである。オフィスビルでも初めての人間は面倒な登録作業を経なければ入ることが出来ない。日本でもこうした仕組みは多数存在するが、どうもブラジルではより手がかかる形式になっているような気がしてならない。そしてこうしたシステムが完全に防犯に役立っているかと言うとそうでもない気がしたりする。。。

ま、いずれにせよ、住人とポルテイロ達との接点は非常に多くなり、従って日常的な挨拶、立ち話は多くなるという背景がある。普段は遮光ガラスを通しての挨拶や会話になるので、向こうの顔は見えない。交代時にばったり顔を合わせたりしない限り、こちらは向こうの顔を認識できないのである。向こうはエレベーター、廊下にある監視カメラで全てこちら側の様子を見ているのでよくわかっているのである。ウチの物件には4人のポルテイロ+支配人的なジェラドールの5名シフトで回している。

そんな中、ある日聞きなれない声がしたので誰だと聞くと、新入りだという。名前を聞くとハイ・ムンドというらしい。よろしくハイ・ムンドと言って別れたのだが、元気がなく声の小さい人だったので、えらく暗いヤツが入ったものだ、他のみんなはものすごく元気な職場だから、アイツ大丈夫かなと思った。それから1週間、ちょくちょくハイ・ムンドの勤務時間に出くわして、相変わらずの元気の無さだった。

暫くしてジェラドールのエジバン氏が居たので捕まえて、おい、新しいハイ・ムンド、元気がないんじゃないの?大丈夫か?なんて軽く聞いたところ、『そんなヤツは居ないよ』とのこと。その瞬間、頭の中で世にも奇妙な物語(←古い)のBGMが鳴りはじめたのを軽く認めつつ、「いやいや、ほら、声の小さいヤツで、朝シフトで居るでしょ」『だから居ないって』なんてやりとりをしてその場は終わった。

次の日に親しいポルテイロ、夕方シフトのジェナーリオ君を通るときにハイ・ムンドについて聞いたところ、「誰それ?朝シフトのマルコに騙されてんじゃないの?ウヒヒーかわいそうに」とのこと。だけどマルコだったら声がデカくて特徴あるからゼッタイわかるしと思って、心底不思議に思って次にマルコに会ったら確認しようと思って次の朝、門を通過するときに居たのはハイ・ムンドだった。

「おはよう、誰?」
『ハイ・ムンドだ(かすれたような小さい声)』

「新入りのハイ・ムンドか?」
『そうだ(聞こえるか聞こえないか)』

「何故声が小さい?」
『・・・風邪をひいている(消え入りそうな声)』

「・・・・・」
『・・・・・』

「マルコ」
『(!)・・・・・』

「おい、マルコだろ」
『・・・・・・・・・・(汗)。』

「マルコ、うそつき」
『おー、アミーゴー、許してくれー、冗談だよー』

「声が違ったからわからなかったぜ、お互いにアホだな」
『ゲヒャゲヒャゲヒャ』

ということで正体がわかったのだが、いったい何がしたかったのか。
ただ単にからかいたかっただけなんだろう、でもあまりにうまく行ってしまったから引けなくなったというところか。愉快な人である。そしてまた、人を信じやすい自分も改めて浮き彫りに。アブナイアブナイ。世渡り気を付けなきゃ。

2014年2月4日火曜日

えればどーる の中で

乗り込んだエレベーターの中に先客がいたとき、みなさんはどのようなポジショニングを取るだろうか。そしてどちらを向いてあの気まずい時間をやり過ごすだろうか。

日本人なら決まって他の人の邪魔にならないような場所(下手すると相手から最も遠い場所)に位置して、入場した方向とは真逆つまりくるりと振り返ってトビラの方を向くに違いない。日本以外の国でも、ほぼほぼ同様な気がする。さほど違和感を感じたことは無い。

さてポルトガル語でエレベーターはエレバドールだ。
ポルトガル語でなになにをする人(や機械)みたいな意味でナントカドールは結構多く、その大げさな響きが可愛い感じがしてときどき吹き出しそうになる(ナントカイスタも多いが同じく大げさで笑える)。乾燥機セカドール、運転手モトリスタみたいな。

そのエレバドールの中が問題だ。ここブラジルでは、乗り合わせた人は皆内側をむいて乗ってくる。例えば混んでいて一人分しかないスペースに乗り合わせたオジさんは、乗ってきたその方向を向いたままどーんとまんじりともせずステイする。そう、完全にみんなの方を向いたままなのである。

なぜこうなるのだろう。ブラジル人同僚に聞くと、「背中を向けると愛想の悪い人みたいだから」との答えだった。また別のブラジル人達からは、後ろを向けてオカマに思われるのを嫌うから、防犯上無防備だからなど、実にお国柄を反映したと言えそうな理由が聞こえてきた。

例えば一つの箱に3人乗っていれば、奥、右、左、それぞれの壁沿いに立って皆中心部を向いて乗る。もはや昇降機サロン状態である。だからといって何かお話しするというものでもない。田舎町であればまたそれは違って、初対面であっても暮らしにゆとりがあるから一言二言話が始まるというのはあるが、この大都市サンパウロではお話などしないのである。であれば向く方向も東京方式で良い様な気がするのだが・・・。

この感覚は、ブラジルに住み始めて7か月経つ今でも慣れない。なんとも異様です。